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19年7月
 先日、お寺での出来事です。何人かの御門徒の皆さんが集まって雑談をしておられました。しかし、さすが正法寺の御門徒です。雑談といいましても、井戸端会議のような世俗の話ではありません。何人かが集まって、仏法についての雑談をしておられたのです。そこに私もいつの間にか加わって、一緒にその話を楽しんでおりました。それは、次のようなことでした。実際は、山口弁でしたが、標準語に訳させていただきます。
   
Bさん 「それにしても、Aさんは、よくお聴聞されますね。なかなかAさんのようにはなれません。」
Cさん 「私も本当に感心します。Aさんは、正法寺のご法座だけでなく、近くのお寺さんのご法座にもお参りされて、お聴聞されているそうですね。」
住職 「それだけでは、ありませんよ。Aさんは、山口別院の毎月の常例法座にも必ずお参りされているんですよ。しかも、車の免許をお持ちでありませんから、電車を使ってですよ。正法寺にお参りされる時も、電車を使って、嘉川駅から歩いて来られていますよ。雨の日は、傘をさして、暑い日は、汗をかきながら、必ずお参りされる姿には本当に頭が下がります。」
Dさん 「正法寺に月に一回お参りすることでも、大変なことななのに、別院にまで毎月お参りされておられるなんて、、、、いつになったら私も、そういった境地に辿り着けるんでしょうか。」
 
その時、この話を恥ずかしそうに聞いておられたAさんが、一言次のようにお話されました。
 
Aさん 「そんなこたぁ、大したことじゃないぃね。ちっともお浄土の足しにはならんのじゃから。」
 
 最後のAさんの一言は、山口弁そのままに私の耳に残っています。それだけ、この一言には、如来様に摂め取られた人にしか言えない有り難く尊い響きがあります。
 私達が形作っている世俗の価値観で考えると、Aさんの最後の言葉は理解しがたいものでしょう。なぜなら、私達の行う努力には、必ず見返りを求める心が伴うからです。この世俗の価値観からいえば、お寺に一生懸命お参りすることも、その先にある見返りがなければ意味がないように思います。「お寺にお参りして何の得があるのか」と思っている人は、まずお寺にはお参りしませんし、お参りしている人の中にも、「お寺に普段から一生懸命尽くしていれば、悪いことにはならない」「お寺でお聴聞することは、私の人生を生きる上で足しになる」などと下心をお持ちの方もおられて当然でしょう。
 私達の心は、どんなに取り繕っても、やはり自分自身の利益追求を第一に働くものです。しかし、本当の純粋な心に触れた人は、私達が当たり前にもっているこの心が、どこか薄汚れた貧しいものであることに気づきます。そして、こんな貧しい薄汚れた心をいくら働かせても、この純粋で広大な心には全く近づけないことも。
 「お浄土の足しにはならない」ということに気づいたということは、私の心とは全く異なる純粋で広大な心に出遇ったということでもあるのです。ですから、Aさんが最後に話された言葉は、純粋で広大な如来様の心に抱かれている深い安心感から出た言葉だともいえます。「私は、つまらない、申し訳ない存在だ」という気持ちが、単なる卑屈ではなく、深い安心感と共にもたらされるのが浄土真宗の信心の在り方でしょう。
 自分自身さえ信じることができない、そんな絶望的な状況でも、そのままで深い安心感に包まれている。これほどの豊かな人生は、他にはないのではないでしょうか。
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