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平成19年10月
 五十歳以上の御門徒の方々から、よく聞かせていただくお話の一つが、お寺を遊び場にしていた子ども時代のお話です。
 昔は、お寺で野球、かくれんぼ、鬼ごっこなど、お寺が子供達の遊び場だったというお話をよく聞きます。中には、お寺の台所に上がって、冷蔵庫の中のジュースを当たり前のように飲んでいたというお話もあります。テレビゲームもなく、塾や習い事も少なかった時代、学校から帰ると、大勢の友達とお寺に行って、日が暮れるまで遊ぶということが、子供達にとって、何よりも楽しいことだったのでしょう。

 このようなお話を御門徒の方々から聞かせて頂く時、お寺の風景の急激な変化に寂しさを感じずにはおれません。本来、誰もが遠慮せずに、安心して訪れることのできる癒しの場がお寺であるはずです。そして、それを象徴する姿が、お寺で遠慮せずに、安心して日暮れまで遊ぶ子供達の姿だったのではないでしょうか。お寺から子どもの声が消えていくということは、大変寂しいことです。

 しかし、ここ最近、そのような住職の寂しさを癒すような出来事が、お寺で起こっています。小学三年生の女の子達数人が、毎日、お寺に遊びに来るようになったのです。その中の一人は、正法寺の日曜学校生です。初めは遠慮がちにしていた他の子供達も、この日曜学校生につられて、今では、安心してお寺で遊んで帰っていきます。お寺の猫と遊んだり、鬼ごっこをしたり、時には、新発意も交えてままごと(新発意がお父さん役)をしたりと、実に子どもらしく微笑ましい姿をみせてくれます。
 そんなある日のことです。子供達が、お寺で遊び終えて帰るとき、山門を出たところで、日曜学校生が、本堂に向かい合掌・礼拝をしていました。その尊い姿に感動した住職は、喜びいっぱいにそのまま庫裡に戻ろうとしました。その時です。後から日曜学校生の声が聞こえてきました。
 「お寺から出るときは、み仏様にお礼せんといけんよ!」
なんとその日曜学校生は、自分だけでなく、他の子供達にも、合掌・礼拝をするように勧めていたのです。その姿には、ただただ頭が下がる思いがしました。

 お寺の山門は、俗なる世界と聖なる世界の境界として置かれています。普段、自己中心的に欲望・煩悩にまみれ、我を張って一生懸命生活している私でも、山門をくぐれば、そこは、如来様を中心とする世界です。大きな温かい親心で、私を包んでくださいます。山門をくぐれば、なにか胸がスーっとするのは、如来様の大きな親心が、私の小さな我をほぐしてくださるからでしょう。山門での一礼は、聖なる世界に対する敬いと如来様に対するお礼の心を表すものなのです。
 小学三年生の子供は、このような難しいことは理解していないでしょう。しかし、毎月の日曜学校や如来様を大切にされておられる家族の姿を通じて、如来様のお心と、お寺という場の持つ意味を体全体で感じているに違いありません。お寺で遊び終え、山門を出る時、如来様に対して頭が下がらないその姿に、何かただならぬ違和感を覚えたのでしょう。
 浄土真宗の念仏者の方々は、頭が下がる自分自身を大変喜ばれてきました。それは、頭を下げずにはおれない尊いものに、遇い難くして、今、遇うことが出来ているからです。人生には、様々な出会いがあります。出会うものすべてが、頭を下げようとも思わないつまらないものばかりなら、その人の人生もつまらないものでしょう。しかし、人生の出会いの中で、頭が下がるものに出会わせていただいたということは、大変ありがたいことであり、幸せなことなのです。頭が下がる人に尊さを感じるのは、その姿が、今まさに、かけがえのない尊いものに出会っていることを表すからでしょう。

 わずか十年の人生で、頭が下がるものに出会っている姿は、本当に尊いものです。その姿に出会わせていただいた私も幸せなことでした。
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