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平成20年3月
 昨年のことです。ある御門徒のお宅へお取り越し報恩講のお勤めにお参りさせて頂いた時、そのお宅のご当主から次のようなお話を頂きました。
 「ご院家さん、私は、毎朝、如来さんと問答をするのが一番の楽しみなんです。朝、お仏壇の前に座ってお勤めをした後、如来さんと話しをするんです。如来さんに、わしの口から愚痴は出てないかの?と聞くと、如来さんが、出とるぞ出とるぞと言ってくださる。そのような如来さんとの毎朝の問答が、今、一番楽しみなんです。」
 うれしそうにお話されるそのお姿からは、仏の智慧に照らされている明るさと柔らかさを感じました。
 「如来さんと話をする」このような言葉は、本来、現代社会の中で育ってきた私共からすると、首を傾げたくなるようなものです。しかし、その一方で、2500年という長い時間の中で、如来という働きによって実に豊かに命を生き抜き、実に豊かな死を死んでいった人々が無数に存在し、その人々が人から人へと、このみ教えを伝え、今なお、如来というものを目の当たりに拝みながら、豊かな命を生きておられる方が実際に存在するということにも眼を向けなければならないでしょう。
 「如来」という言葉は、本来、「真如から来るもの」という意味で、真理に目覚めた仏陀が、迷いの中に沈んでいる者を真理に目覚めさせるために働く働きを示す言葉です。つまり、「如来」とは、この私に真理(まことのことわり)というものをまざまざと知らせる働きをいうのです。真実は、偽りを揺り動かし、やがてそれを破っていく働きをします。もし私が、何かによって破られなければならない不安定な偽った在り方をしているなら、私の他に真実な安定した在り方が、厳然として存在しているといわねばなりません。
 仏のみ教えを聞かせていただきますと、いかに私というものが不安定な偽った在り方をしているのかに気づかされます。親鸞聖人は、そのことを次のような言葉で告白されています。
「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、、、、」
様々な欲に翻弄されながら、怒り、腹立ち、嫉み、嫉むなどの心を暇なく起こし、自他共に傷つけながら、死の瞬間まで、それを絶え間なく繰り返していく、これが、私共「凡夫」と呼ばれる者の在り方であることを吐露されています。この凡夫のどうしようもない悲しみを我が悲しみとして全身で悲しみ、その存在全てをかけて、この私を慈しみ、真実な安定した世界へと導こうとされる働きが「阿弥陀如来」なのです。
 「如来様」ではなく「如来さん」と呼びかけておられる姿に、この方が、真実の如来とお遇いされていることを感じます。自分のことを心から慈しんでくれる本当の母親の心に出会っている子どもは、その母親のことを「お母様」とは呼ばないでしょう。親しみがこもった「お母さん」や「お母ちゃん」という呼び名で呼ぶはずです。本当に親しい関係というは、建て前や遠慮といった二人の間の余計な垣根を崩していくものです。阿弥陀如来という仏様は、高見から私を見下ろしているような仏様ではありません。慈しみ深い母親が、子どもの悲しみや痛みを敏感に感じながら、子どもと同じ目線で子育てをしていくように、私の煩悩まみれの偽った心のど真ん中に、阿弥陀如来という真実の親は、その働きを響かせているのです。

 「如来さん」と呼びかけながら、真実の世界と対話できるような方は、正しくお浄土の入り口に立っておられるような方でしょう。このような方々の尊い姿が、今の時代にまでみ教えを伝えてきたのでしょう。このような方の御跡を慕っていく大切さをしみじみと感じたご縁でした。
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