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平成20年9月
今年のお盆も大変な暑さでした。お盆のお勤めは、僧侶にとって暑さと疲労との戦いです。しかし、その大変なお盆勤めも、やはり、尊い如来様のお仕事です。日頃、怠けがちで煩悩の中へ埋もれていこうとする私を、正しい方向へと導こうとしてくださいます。

 ある御門徒宅において、お経を読誦し、お茶を一杯頂いていた時です。奥様が、一冊の聖典を持ち出され、次のようにお話しくださいました。
「一度、ご院家様にこの聖典を見ていただきたいと思っておりました。これは、亡くなった主人が使っていた聖典です。私達が結婚するときに購入したものです。主人は、病院に入院したときも、この聖典を病室に持ち込み、毎日、お正信偈をお勤めしていました。何十年も使い込みましたので、ご覧のとおりボロボロです。主人が亡くなってからも、大切にとっておりましたが、そろそろ処分した方がよろしいでしょうか。」
手にとって、その聖典を拝見させていただきますと、本当に使い込まれ、ボロボロになっておりました。特に、お正信偈のページは、手垢がしっかりとこびりつき、ボロボロに破れておりました。生涯を通じて、繰り返し巻き返しお正信偈を拝読されたことが、ひしひしと伝わってきます。もちろん、そのご主人とは、お会いしたことはありませんが、お仏壇の前に座ってお正信偈を拝読されている、そんな尊いお姿が目の前に浮かんでくるようでした。私は、即座に次のようにお答えしました。
 「この聖典は、これからも大切にとっておかれたほうがよいでしょう。できれば、お子さんやお孫さんにも、この聖典をよく見せてあげてください。何か感じてくださるはずです。」
 親鸞聖人の『教行信証』の中にある「正信偈」を、日常勤行として制定してくださった蓮如上人は、「聖教は、読み破れ」と言われました。そして、「聖教をすきこしらへもちたる人の子孫には、仏法者いでくるものなり」とも言われています。「すきこしらへもちたる」というのは、「好き好んで所持する」という意味です。お釈迦様がお説きくださったお経や、親鸞聖人や祖師方が示してくださったみ教えを、好き好んで所持する人の縁者には、仏法者が出てくるというのです。
 御門徒の前で、阿弥陀様のお心をお取次ぎさせていただくとき、時々、思うことがあります。それは、阿弥陀様のお心を伝えることの難しさです。浄土真宗のご法義は、言葉で言い表すと、様々に言い表すことができます。しかし、どんな言葉を駆使しようとも、一度のご縁では、なかなか伝わらないというのが実感です。私どもには、死ぬとしか思えない事柄をつかまえて、「浄土に生まれるんだと思いなさい」というのですから、伝わらないのも当然でしょう。しかし、何百年もの間、その教えは、人々の心に響き、伝わってきたのです。どのようにして、昔の方々は、それを伝えてきたのでしょうか。その答えは、言葉を駆使し、分かり易く伝えたというところにあるのではなく、何気ない仕草や姿の中にあると思います。親鸞聖人や蓮如上人の言葉が、多くの人々の心に響き渡ったというのも、親鸞聖人や蓮如上人自身が、阿弥陀如来に救われている人達だったからでしょう。阿弥陀様に心が占領された人達の普段の何気ない仕草や姿の中に、本物を感じさせる何かがあったからに違いありません。心が煩悩に染まっている人は、やはり外面にも煩悩臭いものしか出てきません。しかし、心が阿弥陀様に占領された人は、外面にも阿弥陀様のお慈悲の薫りを放つのでしょう。そして、その薫りは、周囲の人々にも影響を及ぼしていくのです。蓮如上人が、「聖教をすきこしらへもちたる人の子孫には、仏法者いでくるものなり」と言われたのも、そのことをお示しくださっているように思います。

 手垢の付いたボロボロの聖典からも、故人の温かなお浄土からの薫りが漂っていました。私共も、同じように間もなく臨終を迎えます。子や孫に、このような尊い薫りを残せる命を生き抜きたいものです。
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