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平成20年12月
 先日、正法寺の本堂において、ある御門徒の仏前結婚式が営まれました。正法寺で結婚式が営まれるのは、住職夫婦以来、四年ぶりのことです。お寺と聞くと、どうしてもお葬式やご法事など、悲しみを伴う儀式を連想するため、結婚式などのお祝い事の儀式を営むことは避けられがちです。しかし、初参式に始まり、七五三、成人式、結婚式、お葬式など、人生における通過儀礼の一つ一つを、阿弥陀様のお慈悲の中で味わっていくことは、大切なことです。本来、人生に筋を通していくものは、一つでないといけません。喜びや悲しみなど、浮き沈みの繰り返しであるこの人生に、一本の筋を通し、見事にその人生を荘厳していこうとするのが、阿弥陀様の救いなのです。
 この度の結婚式において、特にご紹介したいのが、新郎のお婆ちゃんから、新婚夫婦に小さなお仏壇が贈られたことです。最近は、ご長男であっても、結婚し新しい家庭をもたれると、実家を離れて住まいを構えることが多くなりました。当然、新しい住まいには、お仏壇がないことがほとんどです。仏様不在の生活というのは、言わば煩悩が主役の生活です。親鸞聖人が、ご自身のことを『歎異抄』の中で「地獄は一定住処ぞかし」とご述懐されておられますが、煩悩が主役となるような生活は、正しく地獄を住処とするようなものです。
 お釈迦様は、人生は苦であるとお示しくださいましたが、普段、何事もなく調子のいいときは、苦ということは、全く実感されません。しかし、一つ歯車が狂いだすと、何が出てくるのか分からないのが、煩悩に支配された姿です。自分だけは、人を殺すような人間ではないと、多くの人は思っています。しかし、残虐な殺人を犯し、死刑の判決を受けた死刑囚であっても、生まれたときから殺人を犯そうという目的を持っていたわけではありません。
 浄土真宗の僧侶の中には、死刑囚に阿弥陀様のお慈悲を取り次ぎ、これから死刑が執行されていく人の心の緩和を促す教誨師という仕事に携わっている方々が多くおられます。教誨師の方々のお話をお聞きしますと、死刑囚であっても、その人を悪人だと言い切れないところがあります。自分が犯した罪の恐ろしさに気がつき、その罪を心から償おうとし、死刑を受け入れ、そして、阿弥陀様のお慈悲に触れていくような人は、とても尊い姿を表していくのです。
 ある強盗殺人を犯した二十七歳の死刑囚は、死刑執行が言い渡された時、蓮如上人の「白骨の御文章」を拝読し、一句一句味わいながら頷いていたそうです。そして、他の死刑囚一人一人と握手し、「みなさん、いずれお会いできますが、あなた達はなるべくゆっくり来てください。今までご迷惑をおかけしました。」と挨拶し、最後に、お念珠を手にかけ、もう二度と使わない自分の居室を掃き清め、「布団さまも雑巾さまもさようなら」と深々と頭を下げて刑場に向かったそうです。なぜ、この人が、強盗殺人という恐ろしい犯罪を犯したのかと、誰もが首を傾げたくなると思います。しかし、これが、煩悩に支配された人間の在りのままの姿なのです。善人とも悪人とも言い切れない、善い行いもするが、縁が催せば地獄の鬼と化していく、そんな恐ろしさを誰もが内に秘めているのです。阿弥陀様が、善人も悪人も分け隔てなく救うと誓われているのは、悪いことをした人も関係なく許すと言われているのではありません。煩悩に支配され、善悪が翻りながら、苦しみもがく哀れな衆生を見捨てることは出来ないと言われているのです。
 阿弥陀様のお慈悲というのは、そんな煩悩に支配された哀れな人間を仏の命へと育てていく親の働きです。お仏壇が、普段の生活の場である各家庭に安置されているのは、煩悩を主とするのではなく、阿弥陀様を主とした生活を送るためです。決して、亡くなった人のためにあるのではありません。
 お孫さんのために贈ったお仏壇、それは、煩悩に支配された地獄が潜む生活ではなく、二人でお慈悲の心を味わいながら、浄土に包まれた温かく明るい家庭を築いて欲しいという、お孫さんの本当の幸せを心から願う尊い心の表れです。本当にありがたい結婚式のご縁でございました。
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