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平成21年6月
 五月三日と四日の二日間に亘って、本当に多くの御門徒の皆様のお力添えを賜り、盛大に大法要が厳修されました。改めまして深くお礼申し上げます。両日とも、満堂の本堂で厳かに修行された法要は、本当にありがたいものでした。如来様の働きの中で、今の自分が生かさせていただいていることを、改めて味わせていただきました。
 法要に遠方から参詣くださった実家の本善寺の総代のお一人から、後日、一通のお礼状をいただきました。そこにご自身の味わいを次のように記されておられました。
  「私事ですが、小生は六十歳の定年を間近にひかえ、行く末の有限なる生命の気づきからお寺へ参らせていただくようになりました。最初の頃は、手を合わせ南無阿弥陀仏と称えることさえ恥ずかしくて出来ませんでしたが、十有余年を経て、合掌もお念仏も自然にできるようになりました。」
 お寺にお参りされる方は、それぞれに、お寺にお参りするようになったきっかけをお持ちのことと思います。正法寺の御門徒の中でも、「子どもとの死別がご縁になって」と申される方もおられますし、「母が熱心な念仏者で」と申される方もおられ、本当にそのきっかけは様々です。
 しかし、きっかけは様々であれ、お寺にお参りに来られる方々は、一様に解決しようのない悩みを抱えてお寺に足を運ぶようになったのではないでしょうか。それは、はっきりと言葉に出来るものもあるでしょうし、また、言葉には出来ない深い悩み、あるいは、言葉では表現しづらい漠然として重くのしかかるものまで様々でしょう。
 人生を歩む上において、悩みはつきものです。生まれて死ぬまで人は悩み続けなければなりません。悩みの中には、時間が経過したり、その状況が好転すれば解決するものも多くあります。しかし、私達には、解決しようのないどうしようもない苦しみもまたあるのです。ここに紹介させていただいた「行く末の有限なる生命の気づき」というのもその一つでしょう。自分が死んでいくという悩みは、いくら時が過ぎようと状況がどんなに変化しようとも、決して解決のできないものです。
 一般的に仏教というのは、ある種の人生哲学のように受け取られている側面があります。噛み砕いて言い直せば、それは、より良い人生を生きるために説かれたものであり、人生を生きる上において、聞いておけば役に立つものということでしょうか。
 しかし、仏教というのは、決してただ聞いておけばよいというものではありません。もし、単なる知識的な欲求を満たす興味本位な姿勢で仏教を学んだならば、仏教というのは、それほど魅力的な姿を発揮しないでしょう。しかし、どうしようもない人生における苦しみを抱き、その苦しみを仏教にぶつけたとき、仏教は、今までにない尊い響きでもって、私共の前にその真の姿を現すのです。
 親鸞聖人自身も、どうしようもない深い苦しみを抱き、その答えを生涯かけて、仏教の中に聞き開いていかれたお一人でした。偉大な宗教者ほど、人よりも深い悩みを抱えているものです。悩みが深い故に、それに対して返ってくる答えも、また深いのです。親鸞聖人がお示しくださった浄土真宗というみ教えは、親鸞聖人という偉大な宗教者が抱かれた深い苦しみに対する如来様の深い答えともいえるのでしょう。
 七五〇年も前にお隠れになられた方の言葉が、今もなお、多くの人々の上に生き生きと躍動しているということは、考えてみると本当にすごいことです。それは、どんなに時代が変わっても、深い悩みをもって尋ねれば、親鸞聖人の言葉は、燦然たる輝きを放って、私の中に響き渡ってくださるからこそでしょう。
 しかし、人生におけるどうしようもない深い悩みというものは、一瞬で解決できるような単純なものではありません。人が育っていくには、それなりの時間が必要です。一歩進んで二歩下がるということも、人生には多々あります。しかし、それでも、少しずつ育てられ、時間が経って振り返ってみると、自分の育ちをありがたく味わえるというのが、実際の姿なのでしょう。悩みを持たれた方は、ぜひお寺にお参り下さい。解決の道は、すでに用意されています。
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