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平成21年8月
 先日、ある御門徒の満中陰のご法事でのことです。私の隣に座られたご親戚の方が、次のようなお話を聞かせてくださいました。
 「私は、今年、七十五歳を迎えますが、今、大阪に住んでいます。しかし、私の実家は、嘉川の方で正法寺門徒です。私の母は、よく正法寺の御法座にお参りしていました。あの当時は、私の母だけでなく、近所のおばちゃん達が、みんな正法寺にお参りしていました。母達の井戸端会議は、いつもお寺の話だったことを思い出します。(この間の御法座のお話、あれはありがたかったねぇ。)などと、しきりに母達、近所のおばちゃん連中が、話しているのを聞いて、子ども心に(お寺というところは、どれほどいい話が、聞けるところなのだろう。)などと、思ったものです。」
 五、六十年前のあたたかい田舎の風景が、目の前に浮かんでくるような、ありがたいお話でした。一昔前は、このような光景が、あちらこちらで見られていたのでしょう。人々の中に、自然と仏法が溶け込んでいたような良き時代が、ついこの前まであったことを、ありがたく味わわせていただきました。
 現代において、道端での世間話に、仏法が出てくるというのは、まず、ないといってよいのではないでしょうか。現代は、六十年前と異なり、情報が、溢れる時代になりました。テレビ、新聞、雑誌、インターネットなど、あちらこちらから、様々な情報が流れ出ています。しかしながら、当然のことですが、巷に溢れている情報の中に、仏法に関するものは、ほとんどありません。これは、末法という時代を顕著に表しているように思います。
 仏教には、「三時思想」というおもしろい考え方があります。お釈迦様のお隠れを基点として、正法・像法・末法という三つの時代の流れを考察したものです。正法というのは、お釈迦様がお隠れになって、五百年後までの時代です。この時代は、仏の教え、その教えに従って行ずる者、そして、行じた先に仏法の真理を悟る者が存在します。像法というのは、お釈迦様がお隠れになって一千年が経過した時代です。この時代は、仏の教え、その教えに従って行ずる者はいますが、仏法の真理を悟るものは、もはや存在しません。そして、末法というのは、お釈迦様がお隠れになって千五百年以上経過した時代です。この時代は、仏の教えだけが残り、それを行ずる者も悟る者も、全く存在しなくなる時代です。
 現代は、もちろん末法の時代に当たるわけですが、親鸞聖人がご在世の時も、すでに末法の時代に入っていました。法然聖人や親鸞聖人が、数ある仏教の教えの中で、阿弥陀仏のお念仏のみ教えに心を開いていかれたのは、一つには、この三時思想が大きな根拠になっているのです。つまり、浄土三部経の中で説き示されているお念仏のみ教えは、本当の意味で仏法を行ずることも悟ることもできない、そんな末法の時代に喘ぎながら生きる者のために説かれたものだと味わっていかれたのです。
 現代は、親鸞聖人の時代から、さらに八百年が経過しています。末法の様相は、いよいよその陰を濃くしてきているというべきでしょう。それを表すものの一つが、非常に仏法のご縁に遇い難い時代状況になっているということがあげられるのではないでしょうか。
 蓮如上人は、「数珠は、くれ、くれ」と申されています。数珠というのは、本来、念仏の回数を数えるための法具です。念仏を一回称えるごとに、数珠の珠を一つ繰って、念仏の数を数えていくのが、本来の使い方です。しかし、浄土真宗では、お念仏を口に称えることは大切にしますが、その回数は問題にしません。一回であろうが、百回であろうが、お念仏は、阿弥陀如来の喚び声であり、私の上に働く姿に違いはないからです。にも関わらず、数珠を繰れと申されたのは、仏法のご縁を大切にしなさいということなのでしょう。 私達は、普段、ほうっておいたらお念仏など絶対にしません。また、仏法を聞こうとする心も起こりません。末法だからしょうがないのではなく、自らも仏法のご縁を求めるように努めなさいということなのでしょう。
 しかしながら、ほんの六十年ほど前に、末法とは思えないような有り難い光景が、正法寺門徒の中に広がっていたことを聞かせていただいたことは、大変有り難いことでした。一つ一つの仏法のご縁を、本当に大切にしていきたいものです。
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