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平成21年9月
 先日、ある仏教壮年会の会員の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「私は、最近、母が《真実は、すえとおる》と言っていたことをよく思い出すんです。若い頃、私は、仏法に熱心な母によく反発して《真実というのは、地球が四十六億年前に誕生したとか、人間が約二百万年前に誕生したとかを言うんじゃないのか!》とか言っていたものです。それに対して母は、一言《真実は、すえとおる》と言っていました。若い頃は、事実と真実の違いが全く分かっていませんでしたが、最近は、事実と真実は、やっぱり全然違うなと頷けるようになってきました。」
 お寺に生まれ育った私自身も、昔、同じ反発の思いをもったことがあります。「法蔵菩薩という方が、十劫という計り知れない遠い昔に、四十八の願いを起こし、その願いの実現のために、計り知れない長い間、修行をし、阿弥陀仏という仏に成った。そして、その仏は、今、南無阿弥陀仏という言葉になって私に働きかけている。」このような経典の説明は、実際に時間と空間の中で起こった事実ではありません。事実というのは、時間と空間の中で実際に起こった事柄をいいます。日常生活の上でいいますと、テレビや新聞などで報道されている事柄です。テレビや新聞は事実を告げるものですが、そこで常に問題にされるのは、それが正確に事実を告げているかどうかということでしょう。
 真実に触れることなく生きてきた人においては、正確な事実を告げるものでなければ信用ができないというところがあって当然です。経典の言葉に反発を持つというのは、その言葉でもって説明する事柄が事実ではないからです。事実でないということは、誰かが作った作り話であり、嘘が書いてあるものだということになります。
 しかし、経典をテレビや新聞と同じように正確な事実を告げるものとしてみてはいけません。経典は、事実ではなく真実を告げるものだからです。それによって生き、それによって死ねるというような私共の生と死を貫くいのちの真実を告げようとするのが経典の言葉なのです。経典の中で繰り広げられる阿弥陀仏の物語は、事実ではありませんが、単なる嘘と片付けてしまえるような他愛もない作り話では決してありません。
 そこで告げられているのは、生きる意味も死んでいく意味も見定めることが出来ず、愛憎の心に身を焼かれ続けるしかない私を、必ず救っていく力がすでに完成されているということです。私は、ただ一人生まれ死んでいくような意味のないものではありません。私には、深い如来の願いが宿されています。そして、それは、私一人ではありません。いのちあるものは皆、如来の願いが宿された尊い仏の子です。如来は、あらゆるいのちの上に常に働き続けます。私は、どんな時でも、私の思いに関わりなく如来に抱かれ続けているのです。そのことが告げられていくとき、私を含めたあらゆるいのちの輝きが知らされていくのです。テレビや新聞が告げる事実は、人によってその事実が告げる意味は異なります。また、時間が過ぎると共に意味を為さなくなります。しかし、経典が告げようとするこの真実は、いのちである限り、人であれ、動物であれ、植物であれ、そこに深い意味をもたらし、どれだけ時間が経過しようとも、永遠に響き続けるのです。まさしく、「真実はすえとおる」です。二五〇〇年前に起こった事実は、今の私共には、意味をもたらしませんが、二五〇〇年前にお釈迦様がその口でお説きくださった真実は、今の私共の上にも二五〇〇年前と全く変わらない深い意味をもたらすのです。
 「真実は、すえとおる」と仏法を疑う息子さんに言い切っていかれるそのお姿は、すえとおる真実に実に豊かに生かされている尊さがあります。また、その息子さんが、時を隔てて、すえとおる真実に出遇っていかれたということも、また、すえとおる真実の働きなのでしょう。いつまでも、あらゆるいのちの上に響き続ける、これが仏法が真実であるといわれる所以なのでしょう。
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