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平成21年10月
 以前、ある御門徒のご法事の折に次のようなお話を聞かせていただいたことがありました。
 「私は、仕事の関係で地元を離れて十数年経ちます。お寺さんには、ご無礼ばかりで申し訳なく思っていますが、仕事を辞めて、こちらに戻ってきたときには、お寺のご法座にもお参りしたいと思います。私の子どもの頃は、みんな自分のところのお婆ちゃんに手をひかれて、お寺にお参りさせられたものです。子どもながらによく覚えているのは、大人達に混じって、本堂の中に座っていると、飴玉やキャラメル、時には十円玉などを、周りの方からたくさんもらったことです。喜んで周りを見ると、どこかのお婆ちゃんが、とてもにこやかな笑顔で、私を見つめていました。子ども心に、とても良いことをしている気持ちがして、とてもうれしかったことを覚えています。」
 昔のお寺の様子が、目の前に浮かんでくるようなあたたかいお話でした。

 蓮如上人の言葉に「当流の真実の宝は、南無阿弥陀仏」というものがあります。人は、何かしら自分の宝物を持っているのではないでしょうか。一般に宝と聞いて思い浮かべるものといえば、家族、健康、社会的な地位や名誉、または、即物的に金銀財宝を思い浮かべる方もおられるでしょう。宝物というのは、その人を支え、また、その人の生きる上での拠り所となるものをいいます。
 最近、テレビのある番組で、ある進学塾にスポットをあてたものがありました。たくさんの小学生たちが、ハチマキを頭にまいて、有名私立中学の受験に挑むというものです。勉強することは、決して悪いことではありませんが、テレビに映っていた子ども達の姿には、何か異様なものを感じました。一般的に、現代社会に生きる人々は、本当に大切にすべき宝物を、見失っているのではないでしょうか。蓮如上人は、次のような言葉も残されています。
 「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」
人生において、頼みとしていた妻子も財宝も、自分自身が死んでいくときは、何一つこの身に添って、支えとなってくれるものはないということです。私達は、死すべきときがくれば、この世で宝物としていたものを、すべて置いていかなければなりません。それらは、必ず壊れていくものなのです。
 本当の宝物というのは、いつでもどこでも壊れないものでなければなりません。南無阿弥陀仏は、いつでもどこでも壊れることはありません。それは、生きても死んでも、この身にどこまでも寄り添う命の親の喚び声だからです。そして、その喚び声は、私を常に喚び覚ます声でもあります。これまで、凡夫の世界しか知りえなかった私が、南無阿弥陀仏の働きの中で、その恥ずかしさを知らされ、如来の眼で見る有り難い世界を味わえる身に育てられていくのです。人として生まれた私が、如来に育てられ、仏と成り浄土に生まれていくのです。当流の真実の宝は、私を導き、育て、本当の命の安らぎを与えていきます。
 お寺というのは、本来、サンガともいいますが、仏の教えを味わい慶ぶ者の純粋な集まりでなければなりません。そこでは、如来の心を宝とする者が、お互いに敬いあい、頭を下げあいながら、豊かな命を見る眼を育む場が開かれていきます。何を大切にすべきであるのか、それを、言葉ではなく、温かい雰囲気の中で無言で知らせていく、そんな尊い場所が、本来のお寺の姿なのでしょう。
 子ども心に知らされた、あの温かく尊い雰囲気は、その人の一生を温かく包み込んでいくことでしょう。正法寺の本堂に入れば、いつまでも温かいお念仏の香りがする、そんな尊いお寺であり続けたいものです。
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