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平成21年11月
 先日、葬儀のお礼参りの折に、故人のご家族から、次のようなお話を聞かせていただきました。
  「母は、入院する直前まで朝のお勤めを欠かしたことがありませんでした。毎朝、七時ちょうどにお仏壇の前に座り、お正信偈を必ずお勤めしておりました。父も同じようにそうでしたが、晩年、施設で過ごすことの多かった父に比べて、母は、亡くなる直前まで、そのような日暮しを送らせていただけて、ありがたかったと思います。」
 浄土真宗の御門徒が、脈々と受け継いでこられた尊いお姿というのは、このようなところに現れているように思います。
 浄土真宗の大きな特徴の一つに、「在家仏教」ということが挙げられます。仏教というのは、本来、「出家」という生活スタイルをとります。「出家」というのは、簡単に言えば、一生涯、家族も財産も持たないということです。家族を持つということは、そこには大きな責任を伴います。家族を持てば、それに伴う責任を果たすことに一生を費やすことになり、仏道を行ずることが出来なくなってしまいます。仏教において「出家」をするというのは、一生涯、仏道修行に専念できる環境に身を置くことを意味しているのです。インド、中国、日本の名だたる高僧の方々は、皆、出家をしています。親鸞聖人の師匠である法然聖人でさえ、一生涯、出家を貫かれています。また、現代においても、比叡山の天台座主や永平寺の住職になられるような高僧の方々は、一生涯、出家のスタイルを貫いておられます。
 その中で唯一、親鸞聖人だけが、「出家」ではなく「在家」に身をおかれたのでした。親鸞聖人には、恵信尼様という奥様と七人のお子様がおられました。現代に残っている世界のあらゆる仏教教団の中で、開祖の子孫が公に存在しているのは、浄土真宗だけです。それだけ仏教において、「在家」という生活スタイルは、例外的なものといえるでしょう。
 しかしながら、親鸞聖人が、その九十年の生涯をもってお示しくださった「在家仏教」というものは、決して仏教が世俗化したものではありません。世俗化した仏教は、単なる堕落です。本来、出家すべき僧侶が、俗世間に塗れて在家に身を置いているのとは、全く違うということです。浄土真宗は、仏道が世俗化したのではなく、逆に、在家生活を仏道として高めていくみ教えなのです。それは、出家した僧侶だけが仏道を歩むことが出来るというのではなく、百姓も商人も漁師も主婦も、それぞれが、そのままの姿で仏道としての人生が与えられていくという、仏教の大転換ともいうべきものなのです。
 浄土真宗の御門徒の方々は、普通の在家生活を送りながら、出家した僧侶にも劣らない、見事な仏道の花を咲かせてきました。それを象徴する一つの光景が、家族そろっての朝夕の勤行だったのではないでしょうか。
 在家に身を置いておりますと、様々なことに巻き込まれていきます。嫁と姑、夫と妻、兄弟、親子、様々な絆で結ばれた人々ではありますが、やはりお浄土のようにはいきません。言いたいことが遠慮なく言える分、案外、あかの他人よりも深い絆で結ばれた身内同士のほうが、深く傷つけあっている場合があるのではないでしょうか。放っておけば、身内同士、地獄の世界を造りだしていくのが、私共凡夫の性でしょう。
 家庭生活の中心が、家族それぞれの我であるかぎり、家庭の中に争いは絶えないでしょう。それは、社会生活でも同じことです。それぞれが、それぞれの都合で動く社会は、必然的に混沌としていきます。一日の始まりと一日の終わりにお仏壇の前に座らせていただくことは、一日一日の生活を、阿弥陀如来のお心の中で、深く味わせていただくためです。
 悩み、苦しみが絶えないのが在家生活です。しかし、私、そして、私とご縁のある様々な人々が、如来様の願いが宿された尊い仏の子であることを、日々の日暮しの中で味わう大切な時間を持ちたいものです。
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