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平成22年1月
 あけまして、南無阿弥陀仏。今年も、阿弥陀様のお慈悲の中で、お浄土への歩みを御門徒の皆様と一緒に味わって参りたいと思います。今年も、宜しくお導きいただきますよう、お願い申し上げます。
 先日、住職にとって大変うれしいことがありましたので、ご紹介いたします。それは、ある御門徒さんからの次のようなご依頼からのことでした。
  「先日お約束したお取り越し報恩講の日に、新発意さんもご一緒にお参りいただけないでしょうか?最後まで座っておれなくても結構です。とにかくお越しいただくだけで結構ですから、よろしくお願いいたします。」
 新発意(しんぼち)は、先日、四歳を迎えたばかりのやんちゃ盛りです。法務に連れて行けば、ご迷惑をおかけするだけではないだろうか?そんな不安がよぎりましたが、新発意にとっては、ありがたいご縁を頂戴できるめったとない機会だと思い、御門徒さんのご好意に甘えさせていただくことになりました。
 この度のお取り越し報恩講は、従来のように、一軒一軒お勤めをして回るというものではなく、地区の方々が、一同に一軒の御家に集まられて、お勤めとご法話のご縁に遇うというものでした。五月の継職法要の折にしつらえた子ども用の法衣に久しぶりに袖を通し、ワクワクしながら御門徒宅へ父と向かった新発意でしたが、いざ、御門徒宅に到着すると、意外な人の多さに少々たじろいだ様子でした。しかし、いざ、お正信偈のお勤めが始まると、ほぼ間違わずに最後までじっと正座をしてお勤めすることができました。そして、最後に「聖人一流のご勧化のおもむきは・・・」ではじまる『御文章』を、御門徒の方々に向かって、一人で最後まで間違わずに拝読できました。それは、思わず何人かの御門徒さんが拍手をしてしまうほど立派なものでした。浄土真宗の御門徒と寺族との温かい関係を改めて味わせていただいたことでした。
 おそらく四歳になったばかりの新発意は、お勤めの意味も『御文章』の意味も全く分かっていないでしょう。しかし、分からないままのその姿も有り難いのです。時々、ご法事などで、お酒が入った席において、「仏教が納得できたら、お寺に参ります」や「訳が分からんものを聞く気にはなれません」という方がおられます。確かにもっともなご意見です。分からないものを聞き続けるほど苦痛なものはありませんし、納得ができなければ行動に移せないというのも良く分かります。
 しかし、仏法に関しては、私達は、いつまでたっても分からないのではないでしょうか。仏様が分からない、お浄土が分からないから、私達は、今、迷いの存在としてここにいるのです。分かっていたら、こんなところで迷ってなんかいません。仏法など聞く気すら起こらず、傲慢な思いの中で我欲に振り回されながら人生を過ごしていくのが、私達の姿です。そのどうしようもない私達を、少しずつ少しずつ仏法に向かうように育ててくださるのが阿弥陀如来の願いの働きなのです。仏法を聞く気すら起こらない方も、すでに仏法を聞くご縁に遇っておられる方も、同じ阿弥陀如来のお育ての中にある尊い仏の子です。
 この度、新発意をお招きくださった御門徒さん、温かい目で新発意のお勤めを味わい、喜んでくださったたくさんの御門徒の方々、それらはみんな阿弥陀如来の働きです。小さな体で法衣に袖を通し、お念珠をかけてお念仏を称えている新発意は、その意味を全く理解していないでしょう。しかし、私は、その姿の上に如来様の働きを味わせていただきました。この子の上にも私と同じ如来様の願いが働いていると思うと、親子以上の深いつながりを感じます。
 法然聖人が、難しい理屈を言われずに「ただ念仏申せ」とお勧めくださった意味を、新発意の姿を通して味わせていただいたことでした。如来様は、様々な形をとって、私共を育ててくださいます。分からなければ分からないままお念仏申すところに、お浄土への近道があるのでしょう。
 仏法というのは、分かろうとして分かるものではありません。法然聖人や親鸞聖人のお勧めどおりに、素直にお念仏を申し、如来様に手を合わせる中で、少しずつ育てられていくものなのでしょう。様々な仏縁を慶べる身にさせていただきたいものです。
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