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平成22年8月
 先日、ある御門徒のご婦人の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
  「若い頃、ご法話を聞かせていただいても、人は、必ず病気になるとか、必ず死ぬとか、どうしてこんな暗い話ばかりするのだろうと思っていました。しかし、歳を重ねてくると、最近は、その通りだなぁと、ご法話に頷けるようになってきました。」
 お寺といえば、「お年寄りが集まる場所」というイメージが、非常に強いかと思います。全国の様々な浄土真宗寺院でも、若い世代の方々に集まってもらうために、それぞれに工夫を凝らした教化活動が展開されていますが、若い方が、たくさんお参りするようになったという声は、あまり聞かれません。
 蓮如上人は、「わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。」と言われています。歳を重ねれば、体の自由も利かなくなり、頭も弱っていきます。それ故に、元気なうちから仏法のご縁に遇いなさいということですが、これを言わなければならなかったということは、五百年前も、やはり、若い時から仏法に遇う人は少なかったということでしょう。
 仏法というものは、元来、私達が素直に頷けるものではありません。お浄土に生まれるといいましても、私達には、それは、死ぬとしか思えません。また、お念仏が、阿弥陀如来の働きの現れであることを聞きましても、実感としてそれを味わうことは、非常に難しいことです。初めて仏法のご縁に遇う方にとっては、お寺で聞く話は、どれも現実離れしていて、実感がもちにくいものばかりでしょう。特に、まだ、気力も体力もある若い方にとっては、仏法を聞く気になれないのも無理はありません。
 以前、ある本の中に、宗教についての面白い喩えが、紹介されていました。それは、宗教とは、電車の中にある吊り革のようなものであるというのです。あの吊り革は、電車が平穏に走っているときは、特に必要とはしません。しかし、電車は、必ず大きく揺れる時があります。その時、とっさに掴むのが、あの吊り革です。しかし、その吊り革が、簡単に切れるようなものでは、逆に大きな危険をもたらします。大きく揺れて倒れようとする人の全体重を支え、安定をもたらすのが、吊り革の本来の働きです。宗教というのも、これに似ています。人生は、平穏な時は、本当に平穏です。しかし、人生にも必ず急カーブが訪れます。その時、とっさに掴もうとする目の前の吊り革が、宗教です。宗教も吊り革と同じように、その人を支えきれないものは、非常に危ないものです。とっさに掴むときのために、自分の近くには、自分の全体をしっかりと支えきることの出来る吊り革を、平穏なときから用意しておくことが大切だということです。
 蓮如上人は、そのことを次のように述べられています。
 「時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到来とはいふべし、無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ。」
 普段から仏法を聞いていなければ、時節到来ということはありえないといわれています。ここでいう時節到来とは、如来様に出遇わせていただくということでしょう。分からなければ、分からないままで近くに置いておくことが大切なことなのです。
 これは、言い換えれば、家庭の中にお念仏の薫りを残しておくということに他なりません。若い方は、今は、お念仏を必要としていないかも知れません。しかし、その人にも、必ず人生の上において、何かに縋り、掴もうとするときが、必ず訪れます。その時に、とっさに掴んだ吊り革が、お念仏であったなら安心です。大切な子や孫の近くに、お念仏を残していくことは、先逝くものができる、大きな優しさでしょう。
 共々に、お念仏に薫る家庭生活を心がけてゆきたいものです。
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