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平成23年4月
 先日、ある御門徒の満中陰法要でのことでした。故人のご主人と次のようなお話をさせていただきました。大変、ありがたいご縁をいただきました。

ご主人 「家内の病は、大変珍しい病気で、いわゆる難病でした。家内も色々と苦しい思いをしましたが、最後は、苦しみを和らげる薬を注射することに同意をしました。医者からは、おおよそ五日間かけて楽にしていきましょうと言われました。医者が言った通りに、薬を注射して、ちょうど五日後に、家内は亡くなりました。注射を打つときは、私だけが病室に残りました。若い看護婦が注射をしましたが、上手く注射ができず、ベテランの看護婦が代わって注射をしてくれました。注射を打つ看護婦にも相当な動揺があったように思います。腕を差し出す家内の気持ちを考えると、不思議です。自分だったらあんな風に冷静に注射を受け入れられないと思います。でも、家内の最後をみていると、人間というのは、こんなに変われるものかと思いました。」

住職 「どんな風に変わられたのですか?」

ご主人 「注射を打ってからの五日間は、全く不足を言わなくなりました。本当に穏やかに五日間を過ごしておりました。どうしてあんな風に、穏やかに死を受けいれることができたのか、不思議でなりません。」

住職 「本当に死と直面すると、普段、気づかなかったことに気づけたりするのではないでしょうか。それと、なによりも、奥様は、死を前にしても安心できるものをお持ちだったのではないですか?」

ご主人 「詳しいことは、私には分かりませんが、注射を打ってからの五日間、仏法について話すことはありませんでしたが、ただ、ベッドの上でお念仏はよく称えていました。人間、宗教的なものを持たないと本当に生きることも死ぬこともできないなと思いました。いくらお金があっても、家内のようになれば、役には立ちません。私と家内とは、幼馴染です。子どもの頃、よく一緒にお寺の日曜学校で遊んだものです。二人とも、あの頃は、お正信偈を全部覚えていました。その後、戦争があったり、いろんなことがあって、仏法のことを忘れていましたが、この歳になると、やっぱりあの頃のことが蘇ってくるんです。ありがたい環境で自分達は、育ててもらったなと思います。」

住職 「如来様のお手回しがあったんですね。」

 おおよそ、このような会話でした。人の臨終の様は、千差万別です。親鸞聖人自身、「この親鸞においては、臨終の善悪をば申さず」と臨終の良し悪しを問題にするべきではないことをお示しくださっています。いつ、どこで、どのような死を迎えようとも、それが、その人の人生の価値を決めるものとはなりません。平生、如来様のお慈悲に抱かれた人は、その時に、命の価値と方向性が与えられていくのです。
 しかし、良い死に方、悪い死に方というのは、問題にするべきではありませんが、その人の死の味わい方の良し悪しは問題にするべきでしょう。多くの人々は、死は虚無だと味わっているのではないでしょうか。虚無というのは、何もないということです。生きていることが素晴らしいと感じている人は、何もなくなる死は、恐ろしいものです。しかし、生きていることが苦しいと感じる人は、何もなくなる死に逃げようとします。いわゆる自殺願望です。しかし、本当に、死ぬことで苦しみがなくなるのでしょうか?死が、虚無だという、誰もが分かりきったように持っているこの味わいを、一度、立ち止まって、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 死ぬことを嫌うのは、人間としての本能でもあります。それ故に、死ぬまで本能的に死に抗い欲望を燃やし続けるのが、隠すことができない私達の姿でもあります。しかし、如来様の願いに出遇った方にとって、死は、決して不気味な虚無ではないのです。死を受け入れるということは、虚無を受け入れるということではありません。虚無でない死が、その人の上に開かれてくる世界が、仏法にはあるのです。お念仏は、その世界を私に呼び覚ます如来様の働きです。
 この度のご縁は、改めて、そんな如来様の温かい働きに出遇わせていただけた本当にありがたいものでした。
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