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平成23年6月
  先日、ある浄土真宗のお寺のご住職から、次のようなお話をきかせていただきました
「私のところの前住職も、最近は、本当に歳をとってしまって、老人性の痴呆がみられるようになってきました。今は、必ず家族の者が誰か家にいないと心配な状況です。でも、お念仏に育てられるということは、ありがたいことだなと思います。私のところは、昔から、夕食の前に必ず寺族がそろって、本堂でお勤めをし、如来様にお礼をさせていただいています。今も、痴呆になった前住職を連れて、夕食の前に必ず本堂にお参りしています。本堂でのお勤めを終え、夕食をいただく時になって、席についた前住職が、『如来様にお礼させていただくのを忘れとった』と言いながら必ず席を立とうとするのです。さっき本堂でお礼をしたことは忘れても、お礼をさせていただかなければ、もったいないという心は忘れていないんですね。如来様の働きは、ありがたいですね」
 以前、ある御法座の折に、ご講師の先生が、参詣者の方々に、「癌になるのと痴呆になるのとでは、どちらがいいですか?」と尋ねられたことがあります。その時、多くの方は、癌よりも痴呆になりたくないと答えられていたことを覚えています。おそらく、癌よりも、痴呆の方が、自分自身が壊れていく印象が強いからではないでしょうか。癌というのも、非常に恐ろしい病気ではありますが、割合、最後まで自分自身の意識をしっかりと保てる場合が多いように聞きます。しかし、それに比べて痴呆というのは、重症化すると、自分の大切な家族の顔まで分からなくなると聞きます。それは、まるで、今まで積み上げてきた自分というものが、本当に壊れていくような恐ろしさを伴っています。
 人は、突き詰めていくと、どんな人であっても、一番大切にし、一番頼みとしているのは自分自身であることが、よく分かります。なぜなら、人は、今まで生きてきた「自分」というものを根本的な基準として、物事を判断し行動しているからです。それ故に、あの人と私とは意見が合わないということは、度々起こります。それは、それぞれに違う「自分」を持ち、違う価値基準を持っているからです。それでも、人は、「自分」にしがみついて生きていこうとします。この「自分」を絶対的な価値基準として生きていく生き方を戒め、正すことを教えているのが仏教なのです。浄土真宗も例外ではありません。如来様のお慈悲を聞かせていただき、お念仏を申す人生を歩んでいくというのも、自分を絶対的な価値基準とすることをやめ、如来様を絶対的な価値基準とし、如来様がみそなわす世界に育てられながら人生を歩んでいくことに他ならないのです。
 「自分」を頼みにしている限り、人に救いはありません。なぜなら、その「自分」は、自分が思っているより、ずっと儚く、そして、間違いを起こしやすいからです。いくら頭が良く的確な判断ができる人であっても、痴呆という病にかかれば、良い頭も経験も頼みとはなりません。また、どんなに優れた人物であっても、必ず最後はつぶれていくのです。例え、ノーベル賞を受賞した人であっても、死ぬときは、生まれてきた時と同じように、何も訳が分からなくなり愚か者になって死んでいくのではないでしょうか。
 親鸞聖人が、師匠であった法然聖人からお聞かせいただいた言葉として「浄土宗の人は愚者になりて往生す」というものがあります。阿弥陀如来の救いに抱かれた人は、愚か者のままお浄土へ往き生まれていくというのです。それは、如来様の方が私のことを決して忘れないからです。痴呆になっても、如来様のことを忘れない姿というのは、私が、如来様のことを忘れていないのではなく、如来様が私のことを見捨ててくださらないということなのでしょう。親鸞聖人は、平生に如来様のお心を素直に受け入れた人には、如来様から摂取不捨の利益が与えられることをお説きくださっています。浄土真宗の御利益は、私がどんな風に転ぼうとも、如来様がどこまでも摂め取って見捨ててくださらない、どこまでも抱き続けてくださるというところにあります。
 この度のお話は、如来様の摂取不捨の働きを、改めて、深く味わせていただけたことでした。
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