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平成23年8月
 先日、ある御門徒のご法事において、当家の奥様から次のようなお話を聞かせていただきました。
「私は、最近まで膠原病と癌に苦しめられていました。癌の手術は、六時間に及ぶもので、その頃は、本当に大変でした。今は、手術も成功し、その後、不思議と膠原病の方も落ち着いてきて、元気にさせていただいています。病気で苦しんでいた時に思ったんですが、浄土真宗で本当によかったなと思います。普段、お寺の御法座で聞かせていただいていた時には、正直、それほど胸に響くものではありませんでした。右から左へ話が素通りしていたように思います。しかし、病気になり、いろんな不安な思いがめぐるようになると、本堂で聞かせていただいたお話が、不思議にも胸に響いてくるんです。手術の前も、『如来様に全部任せてしまおう』と思えたら、不思議と安心することができました。それからは、病室でも、『どうしてそんなに明るく居れるの?』と尋ねられるほど、普段通り明るく過ごせていたようです。」
お釈迦様は、「人生は、苦である」と教えられました。その中でも、根本的なものとして「生・老・病・死」の四苦を挙げられています。人生というのは、普段、万事上手くいっている時には、このお釈迦様の言葉が嘘のように、平和に過ぎていきます。しかし、一つ歯車が狂いだすと、何が出てくるのか分からない恐ろしさを抱えているのが人生です。特に、生・老・病・死の根本苦は、人間であるならば、誰もが避けることのできない苦しみです。この四苦は、必ず誰の上にも訪れていきます。その点、私達は、覚悟を決めておかなければなりません。
 しかし、お釈迦様は、この根本苦を、人生における超えるべき課題として教えられています。「人生は、苦であるから、苦しみが襲ってきても当たり前と諦めて生きていきましょう」というような否定的な見方が仏教ではありません。人生は苦であると知り、その苦しみを超えていく道を教えているのが仏教なのです。浄土真宗も例外ではありません。阿弥陀如来のお慈悲の結晶であるお念仏も、苦しみを超える道として、如来様自身が選び抜かれたものなのです。故に、普段、平和に事が過ぎているときは、別段、如来様のお心は響かないのかも知れません。如来様のお心は、誰にも理解してもらえないような逃げることのできない悲しみや苦しみに遭遇したときに、その悲しみの底から厳然と響いてくるものなのでしょう。
 仏教は、本来、お釈迦様がそうであったように、聖人が歩む道が主に説かれてきました。人生における苦しみを超えていくには、聖なる人に成らなければならなかったのです。聖なる人とは、他人に左右されず、自分にも左右されず、どのような縁に遇おうとも動じず、悠然と生き、悠然と死んでいけるような方です。過去を悔やみ、未だ来ぬ未来に不安を抱き、人の眼を気にする、また、病や死の縁に遇えば絶望を抱く、これら思い当るところがあれば、それは立派な凡夫です。浮いたり沈んだりしながら、ふらふらと様々なものに流されていく、こんなどうしようもない凡夫が、苦しみを超えてゆける道を仏教の中に発見してくださったのが親鸞聖人という方なのです。それは、凡夫が凡夫のまま阿弥陀如来という命の親様に願われ抱かれているという真実でした。
 凡夫というのは、今ここが娑婆であり、苦しみを抱えた存在であることすら普段は気づけないのです。呑気にふらふらと生きているだけです。本来、苦しみに出会ったときには、手遅れなのです。ただ沈んでいくだけです。ここに重い病の中で初めて「浄土真宗でよかった」と思われた深い理由があるように思います。私達は、凡夫のまま、すでに間に合っているのです。浮いたり沈んだり、ふらふらとどこに流されていくか分からない、そんな私を放っておけない如来様が、すでに届いてくださっているのです。如来様に出逢った者にとって、ここは、娑婆であるのと同時に、安心して生き、安心し死んでゆける場所でもあるのです。
 普段から聞かせていただくことの大切さを、改めて知らされたご縁でした。

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