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平成23年10月
  先日、ある男性の方から突然、次のような電話がありました。
 「初めて電話するものですが、会ってお話を聞いていただくことはできますか?私、どうすることもできないんです。」
非常に切羽詰まった様子の声でした。どういう方か分からないという不安もありましたが、お寺に何か救いを求めてのお電話でしたから、すぐにお会いすることにいたしました。電話から一時間ほどしてから、その方は来られました。年齢は、四十歳過ぎぐらいでしょうか。本堂に案内すると、まず、御本尊に向かって合掌され、深々と礼拝されました。その方との本堂でのやりとりは、次のようなものでした。
男性 「先生(住職)は、腹が立った時、どうやってその気持ちを抑えるんですか?自分は、もうどうしようもないんです。また、人を殺しそうです。」
住職 私も腹が立つ時はありますが、その前に、何があったんですか?どうして正法寺に電話をかけてきたんですか?」
男性 「電話をかけたのは、ここだけではありません。朝から何十件とお寺に電話をかけ続けました。でも、どこのお寺も軽蔑するような感じで、相手にしてくれません。それで余計に腹が立って、もうどうでもよくなって、自分を断ったお寺に火をつけて回って、自分を馬鹿にした連中をめちゃくちゃに傷つけて、自分で警察に電話して、それで終わりにしようと考えていました。」
住職 よく我慢してここまで来られましたね。他に相談できる方はいらっしゃらないんですか?」
男性 「自分には、親や親戚はいません。孤児院で育ちました。一人ぼっちです。昔は、暴力団に身を置いていたこともありました。その時に、拳銃で人を撃って殺したこともあります。もちろん、刑務所にも長い間いました。山口に来たのは、二年前です。九歳の時に死んだ父親が山口の人だったからです。父親のような人に会えたらと思って、山口での再出発を志したのですが、人間社会は、やはりどこでも同じでした。仕事も辞めました。生きているのが馬鹿らしくなり、また、昔のように自分が抑えられなくなり、人を殺しそうになりました。昔、自分が警察の世話になるたびに、迎えに来てくれていた先生が、浄土真宗のお寺の住職でした。その先生は、いつも阿弥陀様の話を聞かせてくれました。今のどうしようもない自分の気持ちが、お寺に行けばなんとかなるかもしれないと思ったんです。」
住職 「阿弥陀様に導かれて、ここまで来られたんですね。あなたが、人を傷つけたり、自分を傷つけたりすれば、阿弥陀様が悲しまれますよ。あなたには、いつも阿弥陀様が一緒にいてくださるんですよ。ここまで来られたのが、その証拠ですよ。もう少し生きて、阿弥陀様のお心を聞いてみられたらいかがですか?」
 その後もやりとりは続きましたが、長くなりますので、省略させていただきます。最初、お話を始めた時は、本当に恐ろしい眼をしておられました。いつ暴れだしてもおかしくないような雰囲気がありました。「人を殺したことがある」と打ち明けられた時に、なるほどと素直に納得したほどです。普段の住職でしたら、怖くなって、適当にあしらおうとしたかもしれません。しかし、この方とじっくりお話できたのは、この方が、自らお寺に来られたことに、深いありがたさと尊さを感じたからでした。
 この方とのお話の中で印象に残った言葉がいくつかあります。その一つは、「何よりも孤独が怖い」と申されたことです。自分も人を殺したけれども、自分が人に殺されそうになったこともたくさんあったそうです。そんな修羅場を経験してきたにも関わらず、孤独が一番怖いと申されるのです。よく御法話の中で「阿弥陀様は、決して私を一人にしない誓いをたてられたのです」ということを聞かせていただきます。人を孤独にさせるということは、実は、その人を殺すことよりも残酷なことなのではないでしょうか?考えてみれば、「地獄に堕ちる」と仏教で表現される事態も、たった一人、拠り所もなく寂しく絶望の中、滅びとしての死を死んでいくことに他ならない気がします。人は、普段、いくら威勢を張っていても、一人であることを突き付けられた時、真っ暗な絶望の中に堕ちていくのでしょう。そんな真っ暗な絶望の中に堕ちた者にしか言えない重みが、その一言には籠っていました。
 しかし、この方は、それと同時に「自分で作ろうと思ったことは一度もないが、なぜか昔から阿弥陀様とご縁があるんです」とも申されたのです。この言葉も非常に印象深いものでした。阿弥陀様の働きは、生きとし生ける者の上に届いています。それは、言葉通り分け隔てなく届いているのです。阿弥陀様の働きに気づいた人にとって、その事態は、ただ不思議としか言いようのないものでしょう。阿弥陀様の救いの働きというのは、単に「死ねばお浄土に連れて行く」というようなものではありません。その人の命の方向がお浄土に向かうことなのです。それは、生きている今の事態です。不思議にも、阿弥陀様の方に足が向かう、手が合わさる、このことが、少しずつ自分が育てられている証拠なのでしょう。人は、変われるのです。真剣に仏法を聞く者は、阿弥陀様が、お浄土に生まれるにふさわしい身に、必ず育ててくださるのです。『仏説無量寿経』の阿弥陀仏の誓が、その動かぬ証拠です。
 どんな人の上にも、阿弥陀様のお慈悲が注がれていることを、改めて味わせていただけたご縁でした。
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