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平成23年11月
 先日、あるご法事でのことです。御当主が、御挨拶の中で、次のようなことを話されました。
「親族の皆様におかれましては、本日は、祖母をご縁として、お念仏のご縁に恵まれましたこと、大変喜ばしいことでございます。」
 ご法事となると、当家の準備等も大変ですが、招待する親族の方々に対する気遣いも何かと大変です。特に、忙しい現代において、日程を開けてもらうことや、遠方からお越しいただくときなどは、特に気を使わなければなりません。最近は、そんな事情を反映してか、少人数で勤めるご法事が、多くなった気がいたします。
 また、招待される側の方々の意識も、時代と共に変化してきているようです。東京や大阪などの都市部では、葬儀を勤めず、直接火葬場に運ぶ直葬という形が増えてきているようですが、それに伴いご法事も、一周忌以後は勤めない方が増えているようです。仏事を勤めることの意味が、時代と共に認識されなくなってきています。それゆえに、ご法事に招待される側も、中には無意味な儀式に付き合うという意識でお越しになる場合もあるのではないでしょうか?そこには、死を無価値にしてしまう現代人の貧しい心根があるような気がいたします。
 死に臨んでの宗教的な儀式というのは、人であることの一つの特徴であると思います。以前、ある新聞に二十万年前のネアンデルタール人の旧跡からお墓や屈葬の跡が見つかったことが記されていました。人は、原始の時代から、死をそれぞれの形で受け止めてきたのでしょう。人と同じような姿をした猿であっても、人以外の動物は、死を認識することができません。テレビなどで、猿が亡くなった我が子をいつまでも抱き続ける光景を見たことはないでしょうか。あの猿は、我が子が腐り始めて、やっと亡くなった我が子を手放すことができるのです。死を認識するというのは、具体的に表現すれば、自分自身も死んでいくんだと受け止めることができるということです。死が認識できないというのは、同時に生も認識できないということでしょう。
 先日、ある御法座で、アメリカの研究者が、死刑囚の刑務所と無期懲役囚の刑務所とを何か所が訪れた時に、死刑囚が活気に満ちていたのに対して、無期懲役囚は、生きた屍のようであったことを発表した論文があることを聞かせていただきました。死刑囚は、毎日、午前七時から午前八時までの一時間の間に死刑執行される人が発表されるそうです。その一時間は、静まり返るそうですが、その発表の時間が終わると、実に活気に満ちていくといいます。それは、与えられた一日が、輝いていくのだそうです。それに比べて、無期懲役囚は、明日、死ぬかもしれないという心配がありません。刑務所の中で、与えられたことをこなしていくだけです。どの人の眼も死んでいたといいます。ご講師の先生が、「死を遠ざける現代人も、塀の外にいる無期懲役囚のようなものかも知れません」と話されたことが印象的でした。もちろん、死を忌み嫌うだけの姿勢からは、本当の生の喜びは生まれてはきませんが、このお話は、死を受け止めることの大切さを教えてくれています。
 浄土真宗では、お念仏の中で死を受け止め、生を味わっていくことを教えています。お念仏とは、如来様のお慈悲の働きそのものです。私を深く慈しみ深く悲しんでくださるそのお心の中で、死を受け止め、生を味わっていくのです。親しい方の死をご縁として、仏事を勤めることの意味は、世間で思われているような死者の魂を鎮めることではありません。死者の魂を鎮める儀式でしたら、死者の魂に恐れない人にとっては、まったく無意味なものになるでしょう。しかし、死は、誰の上にも例外なく訪れていきます。その死を我がごととして、真正面から受け止め、如来様のお心の中に、その尊い意味を尋ねていく儀式が、葬儀や法事であるといえるでしょう。その意味で、ご法事に招待され、お念仏のご縁に恵まれることは、大変喜ばしいことであるのです。それは、死んでいくことにも生きていくことにも同じように尊い意味があり、生死そのままに如来様に抱かれている自分に出会っていくことでもあるからです。
 仏事が持つ尊い意味に改めて気づかせていただいたご縁でした。
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