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平成24年1月
 先日、ある御門徒の三十三回忌のご法事でのことでした。お斎をいただく時、近くに座っておられた男性の方が、次のようなお話をしてくださいました。
 「先ほど、本願の御文を拝読してくださいましたが、如来様が除くと言われたのは、私のことです。私の父は、晩年、肺を患いました。いつも、年老いた父を私が後ろから抱きかかえて、病院で胸に注射を打ってもらっていました。その時、父は、いつも涙を流して泣いておりました。気丈な父でしたから、自分の情けなさに涙をこぼしているのかとずっと思っておりました。ある時、父に、なぜそんなに泣くのかと、聞いたことがあります。すると父は、『お前が私と同じ歳になったとき、お前も私と同じようにこんなつらい目に遭わなければならないのかと思うと、涙が止まらないんだ』と泣きながら話してくれました。そんな父の命を、息子の私は、苦労を掛けて縮めてしまいました。如来様が、除くと言われたのは、私のことです。しかし、除くと言われた私を離してくださらないとは、本当にありがたいことです。」
『仏説無量寿経』には、阿弥陀仏の四十八の願いが説かれています。古来、様々な解釈がある中で、四十八の願いの中、第十八番目に説かれている願いが、阿弥陀仏が根本的に願われているものだと証明していかれたのが、親鸞聖人に至る浄土真宗の歴史なのです。浄土真宗では、本願といえば、阿弥陀仏の四十八願の中、第十八番目に説かれている願いのことをいいます。その第十八番目に説かれている願い、本願の御文とは、次のものです。
『たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。』
 慣れない方には、少し難しい御文かもしれませんが、浄土真宗の御教えを聞かせていただくというのも、実は、この本願のお心を聞かせていただく他はないのです。一生かけて聞かせていただく内容が、ここに籠められています。初めに「十方の衆生」とあります。「十方の衆生」とは、人からアメーバのような生き物まで、この世界の生きとし生けるすべてのものを意味しています。しかし、最後に注意書きのように「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」とあります。「十方の衆生」といいながら「除く」と言われているのは矛盾します。これに関して、親鸞聖人は、次のように味わっていらっしゃいます。
『唯除といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。この二つの罪の重きことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。』
『唯除といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。この二つの罪の重きことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。』
阿弥陀仏が、五逆罪と正法を誹謗する者を除くといわれたのは、それらの罪の重さを知らしめるためのものであって、本当に除くためではないというのです。五逆罪というのは、「母を殺す」「父を殺す」「聖者を殺す」「仏身より血を出す」「和合僧を破る」という五つの罪のことをいいます。正法を誹謗するというのは、仏法を謗るという罪です。重罪を犯すというのは、何らかの形で、必ず自分自身がその報いを受けていかなければなりません。そのことを見抜いておられる如来様が、私が悪に陥らないように、それを厳しく誡め、護ろうとされているのです。五逆罪と正法を誹謗するものを除くと言われたのも、如来様のお慈悲なのです。
 私達は、気づかない内に如来様の誡めに背いて罪業を重ねていきます。しかし、そんな私達を決して見捨てることなく導き続け、喚び覚まし続けてくださるのが阿弥陀如来の本願による働きです。自分が父母や仏陀に背いた罪人であることに気づいた人というのは、自分に本当の安らぎと幸せを与えようとされていた父母や仏陀の慈愛に気づいた人であり、その慈愛に反逆し続けてきたことへの申し訳なさを深く感ずる人へと育てられていたのです。
 罪を罪として認めることができるのは、それを悪とする真実のお心に出遇っているからです。申し訳なさの中にも、深い安心をいただいてゆけるのが、浄土真宗の念仏者のお姿なのでしょう。
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