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平成24年2月
 今年も報恩講の季節が過ぎてゆきました。今年は、特に、親鸞聖人の七五〇回大遠忌にあたる特別な年でもありました。正法寺でも長年に亘って、一月十六日の親鸞聖人の御正忌を御満座とする三日間の法要が勤められてきました。近年では、時代状況も鑑みて、一月十六日に近い週末に勤めています。今年も、忙しい中に報恩講だけはと時間を作って御参詣してくださったり、主人を引っ張ってきましたと御夫婦で御参詣くださったりと、報恩講を大切に思われる多くの御門徒の姿に触れさせていただきました。中には、正法寺門徒ではありませんが、正法寺の噂を聞きつけて、遠く広島県から御参詣くださった方もいらっしゃいました。
 正法寺の報恩講の翌日、一月十六日は、正しく御正忌と呼ぶべき、親鸞聖人の七五〇回忌にあたる御命日でした。ご本山では、毎年の御正忌報恩講とあわせて、昨年四月から勤められてきた七五〇回大遠忌法要の御正当が勤められました。住職も五十年に一度のご縁に遇わせていただくべく、日帰りの忙しいスケジュールでしたが、ご本山に参詣をさせていただきました。午前十時から始まる御満座に間に合うべく、朝一番の新幹線で参りましたが、ご本山に到着した時には、御影堂に三千脚用意された椅子が、全て埋まっておりました。法要が始まるころには、御影堂後ろの空きスペースが、参詣者で埋め尽くされていました。おそらく四千人近い方々が、御参詣されていたのではないでしょうか。お内陣のお荘厳も、五十年に一度しかお飾りされない九具足という形でなされ、修復仕立ての御影堂を、より一層美しく輝かせていました。御門主が御導師をお勤めになり、数多くの出勤僧侶による声明は、大変感動的なものでした。
 しかし、親鸞聖人の尊さは、このように数多くの人々を集めているところにあるわけではありません。確かに、多くの人々が御参詣されることは喜ばしいことではありますが、多くの人が集まっているからといって、その教えが本当に人を救えるものであるかどうかは、それだけで判断することはできません。いくら人が多く集まっていても、集まっている人々が、煩悩に振り回されるつまらない人々ばかりであるなら、その教えは宗教としての意味をなしていません。数は少なくとも、その教えによって本物の人間が育てられているのであれば、その教えは、魅力のある意味のあるものと言えるのではないでしょうか。親鸞聖人の尊さは、その教えが、本物の仏教者を多く、しかも、僧侶ではない一般の御門徒の中に輩出してきたところにあると思います。
 この度のご縁で、残念だったのは、四千人もの人々が集まりながら、お念仏の声が、堂内において閑散としていたことです。お念仏を申されない方も多く見受けられたように思います。
 しかし、その中で有難かったのは、平成二十年の春彼岸会に正法寺にもお越しくださった大阪の天岸浄圓先生の「ていねいに生きる」というお取次ぎでした。日々の日暮しの中で、お念仏を申させていただくことは、「ていねいに生きる」ことに他ならないと思います。私達は、果たして日々をていねいに生きることができているでしょうか。誰もが勉強をし、仕事をし、それぞれに努力をして、苦労の中で自分の人生を精いっぱい生きていることには違いはありません。しかし、努力をして自分の中で満足している日々が、そのままていねいに生きていることには、つながりません。なぜなら、努力をして自分の中で満足している日々が、欲を貪り、怒りに身をまかせ、真実を省みようとしないものであるなら、いくら自分の中で満足していても、ていねいに生きていることにはならないからです。そもそも、「ていねいに生きる」というのは、「正しい生き方」というものを知らないものには、その考えすら浮かばないものでしょう。何が正しくて、何が間違っているのかを知らしめていくのが、如来の救いの働きでもあるのです。お念仏というのは、如来様のお慈悲が、私にそのまま届けられているものです。お念仏申す中に、自分の今の姿が、如来様のお慈悲に適った生き方をさせていただいているかどうかを常に確認させていただくのです。一つ一つの行いを、如来様のお慈悲に尋ねていくところにていねいな生き方が恵まれてくるのでしょう。
 親鸞聖人の生きられた日々は、まさしく、そのようなていねいな生き方でした。浄土真宗門徒として、親鸞聖人の七五〇回忌にあたり、お念仏を口にかけ、一日一日をていねいに豊かに生き抜くことを心がけさせていただきたいものです。
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