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平成25年1月
 あけまして、おめでとうございます。昨年は、御門徒の皆様方には、大変お世話になりました。本年も、御門徒の皆様方と共に、お念仏薫る中、お浄土への歩みとして、大切に過ごさせていただきたく存じます。
 先日、ある御門徒宅において、次のようなお話を聞かせていただきました。
「長男は、仕事が忙しく、なかなかお寺にお参りすることも、実家に帰ってくることもできない状態ですが、如来様のことは、大事に思ってくれています。あの子は、子どもの頃、お寺にお参りすることを、とてもいやがりました。私が、お寺の日曜学校に連れていこうとするのを、二階に逃げてバリケードまで作って反抗しました。それでも、私は、あの子を叱りつけて、無理矢理、お寺にお参りさせました。私は、子どもを一人亡くしています。亡くなったあの子が、私の善知識(私を仏法に導く善き先生)になってくれました。元気で育ったこの子には、どうしても仏縁に遇ってもらいたかったのです。大人になった今でも詳しい仏法のことは、まだまだ分かってはいないでしょうが、ここに帰ってきたときは、何よりも先にお仏壇の前に座って、手を合わせてくれています。如来様を大切に思ってくれている姿を見ると、安心します。」
 仏縁に遇うことほど、難しいことはありません。『仏説観無量寿経』には、念仏者は、人中の芬陀利華だと説かれています。芬陀利華というのは、お浄土に咲く白い蓮の花のことで、お浄土でもめったに咲くことのない珍しい花とされています。念仏者というのは、それほど尊く、遇い難いものなのです。親鸞聖人も、その主著『教行信証』の序文の最後に、仏縁に恵まれたことを、次のように慶んでいらっしゃいます。
「ここに愚禿釋の親鸞、慶ばしいかな、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釋に、遇い難くして、今遇うことを得たり、聞き難くして、今聞くことを得たり。真宗の教・行・証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知ぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」
非常に難しいお言葉ですが、宗祖のお言葉ですので、余計な手を加えず、そのままご紹介させていただきました。ここには、遇い難く聞き難い仏法に出遇えた親鸞聖人のほとばしる慶びが感じられます。遇うべきものに遇わせていただき、聞くべきものを聞かせていただいた。人生に一点の悔いもなし。というところでしょう。
 そもそも、私は何のために生まれてきたのでしょう。また、この人生にどんな意味があり、何を目指して生きるべきなのでしょう。この根本的な問題に心を砕くことができるのは、多くの命がある中でも人間だけです。この問題に心を砕くことが出来ない人は、人として生まれてきた甲斐がないということでしょう。生まれてきたことにも、生きることにも、そして、死ぬことにも、はっきりとした意味があることをお釈迦様は説かれたのでした。仏教徒というのは、その仏説を仰ぎながら、自分の命の意味を味わっていく者のことをいうのです。
 浄土真宗の盛んな地方に「鬼菩薩」という言葉があるそうです。特に、お嫁さんと姑さんとの間で使われるそうですが、嫁いできた何も知らないお嫁さんを、姑さんは、厳しく育てていきます。特に、お寺や仏事に関わることは、妥協することなく厳しく指導していきます。お嫁さんからすれば、鬼のような姑さんです。しかし、そのお嫁さんも、仏縁に恵まれる時がやがて訪れます。その時に、大嫌いだった鬼のような姑さんを、菩薩様と仰いでいく世界が開けてくるというのです。私に、あれほど厳しくあたっていたのは、この如来様の御慈悲に遇わせるためだったのかと、頭が下がっていく世界があるというのです。鬼菩薩、ありがたい言葉ですね。大切な人ほど、仏法に遇ってもらわなければなりません。なぜなら、人として生まれながら、命の慶びもいただけないまま苦しみの闇の中に落ち込んでいくことは、いたたまれないことだからです。
 時に、鬼となって遇い難い仏法に導いてくださる、これも如来様の深いお慈悲の働きでしょう。
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