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平成25年2月
 今年も、御正忌報恩講には、延べ250名を超えるたくさんの方々が、御参詣くださいました。その中には、三日間、全てのご縁に遇ってくださった方もいらっしゃいますし、この度、初めて、お寺の御法座に御参詣くださった方も、何人かいらっしゃいました。仏縁に恵まれるということは、本当に難しいことです。人は、仏法を聞かせていただこうという心を、本来、自分では起こせないのだろうと思います。自分に都合のいい話は、いくらでも聞く気が起こりますが、自分の都合を超えた話というのは、凡夫の耳には響いてこないものなのでしょう。そんな中で、仏法を聞かせていただこうという心が起こっているのは、やはり、そこに私の力を超えた如来様の不思議な働きがあるということなのでしょう。
 この度、初めて、お寺の御法座に足を運ばれた方のお一人をご紹介したいと思います。その方にとって、仏法に近づくご縁となられたのは、奥様の御往生でした。大阪で御往生されましたので、葬儀は、大阪のご近所のお寺のご住職に勤めていただいたということでした。山口には、奥様の満中陰が過ぎて、しばらくしてからお戻りになられたのです。関西には、月忌参りという習慣があります。例えば1月16日に、家族の誰かが往生すると、毎月16日に、お寺の住職がお勤めに下がるのです。その方も、大阪にいらっしゃった時は、毎月、葬儀を勤めてくださったご住職が、お勤めに下がってくださっていたということでした。それで、山口でも毎月、奥様の月命日にお参りいただきたいとのご依頼があり、毎月、正法寺の住職も、その方のご自宅にお参りさせていただくこととなったのです。奥様を亡くされた悲しみをご縁として、毎月、住職と一緒に『仏説阿弥陀経』をいただくことは、お経の意味は分からなくとも、大変ありがたい仏縁となっていきます。奥様の三回忌が過ぎ、しばらく経った頃、本願寺山口別院において、『帰敬式』が執行されました。その『帰敬式』にご自分からお申し出され、受式してくださったのです。『帰敬式』とは、煩悩にまみれた私の心を拠り所として生きていた者が、如来様の御慈悲のお心を拠り所として生きる新しい人生を仏前で誓う儀式です。その時に、法名という新しい人生を歩む新しい名前をいただきます。法名とは、決して死後の名前ではありません。
 『帰敬式』を受式された後の月忌参りの時、その方から、次のようなお言葉をいただくことができたのです。
 「『帰敬式』を受けさせていただいた時、(これからは、ご自分のお寺に月一度はお参りさせていただきましょう。)というお話をいただきました。これからは、ご住職にお参りいただくだけでなく、私も、月一度、正法寺様にお参りさせていただきたいと思います。毎月、何日にお参りさせていただいたらよろしいでしょうか。」
 即座に住職は、答えました。
「それなら、御法座にぜひ、お参りください。ただお寺に足を運べば良いというものではありません。月に一度、お寺にお参りするというのは、月に一度は、仏法をお聴聞させていただきなさいということです。み教えを聞かせていただいてこそ、お寺にお参りする価値があるのですよ。」
 そんな話があって、この度、御正忌報恩講のご縁に、初めて、仏法をお聴聞する席にお座りくださったのです。大変、ありがたいことでした。これまで、正法寺から少し遠方でもあり、お車も運転されないということから、住職も、御法座にお誘いするのを遠慮していたところもありました。しかし、住職が、誘わなくとも、仏縁は整えられていたのです。かけがえのない奥様との死別が、大きな仏縁として花開く様は、どんな悲しみの人生であっても決して無駄にせず、必ずお浄土の実現を誓ってくださっている如来様が、私の上にも働いていることを教えてくれています。
 決して、私が賢いから仏法を聞けているのではありません。また、聞いて賢くなるのでもありません。ただ、この私を放っておけないという如来様のどうしようもないお慈悲の中、不思議にも、本来、聞くことのできないものを聞かせていただいているのです。仏縁に恵まれていることを、大切にさせていただきましょう。
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