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平成25年3月
  先日、ある御門徒の方が、大変貴重なものをお貸しくださいました。それは、五十年以上前の葬儀の様子を収めたビデオ映像でした。今年、前々住職の五十回忌を迎えることをお話ししたことがあり、前々住職の元気な姿が収められた貴重な映像をお貸しくださったのです。写真でしか前々住職の姿を見たことのない寺族にとって、その映像は、大変貴重で新鮮なものでした。
 しかし、それにも増して、ありがたかったのは、話にしか聞いたことのなかった昔の葬儀の様子を実際に目にすることができたことです。そこには、地区の方々が行列を作って野辺送りをし、薪を組んで野辺で火葬にする様子まで収められていました。特に、当時の方々の凛とした表情が印象的でした。現在は、火葬場の炉の中で火葬にしますので、遺体に火をつけるところまでは、目にすることはありません。燃えている間は、火葬場の控室で談笑することもできます。しかし、当時は、つい最近まで息遣いを身近で感じていた方に火がつけられ、火に包まれていく様子を誰もが目にしていたのです。そこには、必然と厳粛な空気が流れていきます。人が死を迎えるということが、どういうことであるのか、言葉ではなく身をもって伝えられていたように思うのです。
 人は、生まれながらにして大きく生・老・病・死の四つの苦しみを抱えているとお釈迦様は教えてくださいました。人は、誰もが、この苦しみを経験していかなければなりません。生の苦しみには、二つの意味があると考えられています。一つは、生きるが故に経験しなければならないあらゆる苦しみを総称する場合です。二つは、生まれてくる時の苦しみをいう場合です。生まれてきた時の苦しみは忘れていますが、出産する母親がそうであるように、生まれてくる子も生きるか死ぬかの壮絶な苦しみを経て生まれてきたのでしょう。人は、誕生の最初の時に、大変な危機を乗り越えなければならないのです。このように、初めに生の苦しみを味わい、最後に死の苦しみを味わわなければなりません。そして、その生と死の間に老と病の苦しみがあるのです。
 年老いてゆけば身も心も共に衰えていきます。慢性的な病いのような状態になり、長生きすれば孤独が募っていきます。病気というのも、どれほど医学が進歩しても拭いきれない苦しみがあります。むしろ、現在は、医学が進歩したが故に、より苦しまなければならない状況も出てきています。そして、この老と病の苦しみは共に、自己の消滅である死を否応なく目の前に突き付けてきます。死は、自己と自己が描いていくすべての世界の消失を意味しています。すべて奪われるのです。老と病の苦悩と不安は、詰まる所、この死の予感がもたらすものと言えるでしょう。
 お釈迦様は、苦しみを単なる悲観的なものとして捉えられたのではありません。人生を克服すべき課題として捉え、その苦しみを超えていく道を教えてくださったのです。しかし、最近は、人生を克服すべき課題として捉えることが非常に難しくなったように思います。それは、他人の死をできるだけ目に触れないところで処理するようになったからです。他人の死は、決して他人ごとではありません。特に親しい方の死は、私にとって、受け止めるべき大切な意味を含むものなのです。自分の一部であるような大切な方の老・病・死を通して、その苦しみが私にとって大切な意味をもたらすものとならなければなりません。
 人生における苦しみを克服すべき道は、すでに開かれています。お釈迦様がお悟りを開かれて、約二五〇〇年の間、人生の苦しみを克服してきた尊い方々が、歴史の中にたくさん出てこられました。親鸞聖人も、そのお一人です。しかし、その苦しみから逃げるだけでは、そのような尊い方々の言葉も虚しく響いていくだけです。生・老・病・死の逃れようのない苦しみを真正面から受け止めていく中に、厳粛な正しい生き方を求める姿勢が生まれてくるのでしょう。本堂でお聴聞させていただくのも、苦しみを受け止め、正しく人生を歩ませていただく為です。まやかしではなく、地に足をつけて正しく人生を歩ませていただくのが、お念仏の日暮しです。お互い、限りある命を正しく歩み、正しく往生させていただきましょう。

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