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平成25年5月
 先日、近隣の浄土真宗本願寺派の寺院からなる山口南組のある集まりの折、ある寺院の仏教壮年会の会員の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
 「私が、お寺の仏教壮年会に参加させてもらうようになったのは、三十五歳の時です。父が亡くなった時に、御院家さんから誘われて参加したのが初めです。私の地域には、浄土真宗門徒が少なくて、お寺にお参りしても知らない人ばかりでした。でも、私は、お酒が好きで、仏教壮年会で飲み会がある度に、仲のいい友達が増えていきました。初めは、ただ、お酒を飲みにお寺にお参りしていたようなものですが、今になって思うと、お寺とご縁が持てたことは、本当にありがたいことだと思います。お寺にお参りしていなかったら、結局、隣人とけんかしたり、ねたんだり、ねたまれたり、そんなつまらない日々しか残らなかったと思います。」
 御年齢を尋ねることは出来ませんでしたが、おそらく六十五歳前後のお歳を重ねていらっしゃるのではないでしょうか。三十年近くに亘って、仏法を聞き続けてこられた方の、芯の通った有難い空気が、言葉に籠っていました。如来様の働きに出遇っておられる方の言葉には、響きがあります。その響きに頭が下がる思いを持たせていただきました。
人は、何を目的として生きるのでしょうか。その意味を深く考えることができるのは人だけです。『仏説無量寿経』には、人の生きる姿について、次のように説かれています。
「しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同然にして憂思まさに等し。屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安きときあることなし。」
 人は、身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいるというのです。そして、それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかな時がないと指摘されています。確かに、私たちは、お金や家がなければ、ないで悩みますが、しかし、あれば、あることでまた悩んでいきます。それによって、そねみ、嫉む心も起こしていきます。あの人のように立派なお家に住みたいとか、あの人のように立派な会社に勤めたいなど、例を挙げればきりがありません。しかし、立派な家に住んでいる人に悩みがないかというと、決してそうではないのです。やはり、同じように憂い悩みは尽きません。「薄俗にしてともに不急の事を諍ふ」とあるように、急がなくてもよいことを、一生懸命急ぎ争い合い、激しい悪と苦の中に埋没していくのが、私達の隠しようのない浅ましい生き様なのでしょう。
 しかし、自分の浅ましさというのは、自分では気づくことはできません。まして、同じような生き様をさらしている他人に指摘されて納得できるものでもありません。お経というのは、自分では気づけない、他人からも教えてもらえない、そんな大切な事柄が説かれてあるのです。だから、一言一言、大切に頂いていかなければなりません。『仏説無量寿経』には、その後、このような生き方を改め、阿弥陀仏のお浄土を目指すような生き方をすべきことが説かれていきます。そんな生き方からは何も残らない、本当の幸せとは何であるのかをよく考えるべき旨が、厳しく諭されています。
 人生をつまらなく虚しいものにするのは、他人や周りの環境ではありません。他ならない私自身なのです。そして、虚しいものを虚しいものと気づかず、どこまでもそれを争い追い求めていくことが人生の目的となっているのが、私の姿なのではないでしょうか。
 やはり、仏法を聞いていかない限りは、つまらないものしか残っていかないのだろうと思います。仏法を聞かせていただくこと、それは、私が追い求めても決して得ることができない、本当の安らぎを頂いていくことです。仏法に耳を傾けさせていただきましょう。


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