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平成25年6月
 先日、ある御門徒のご法事の折、御当家の奥様が、次のようなお話をしてくださいました。
 「御院家さん、私は、最近、つくづくこう思うんです。子どもの頃は、元気いっぱいに友達と色んな遊びを経験することが、命の栄養になると思うのです。そして、若い時は、趣味などの自分の好きな楽しみが命の栄養になっていました。でも、今、歳をとってみて思うのは、自分の好きな趣味も遊びも栄養にはなりません。歳をとってからの命の栄養は、やっぱり南無阿弥陀仏のみ仏様だと思います。私は、耳が悪くて、お寺でのご法話が、よく聞き取れません。でも、毎日、自宅のお仏壇の前に座って、「ナマンダブツ、ナマンダブツ・・・」とお念仏させていただいています。」
 ありがたいことだなと思って、頷きながら聞かせていただきました。
 蓮如上人のお言葉の中に、次のようなものがあります。
「陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと云々」
 花でも太陽の光の当たり具合によって、早く開くものもあれば、遅く開くものもあるように、仏法でも、その真実に目が覚め、お念仏の花が開くのには、その人その人で時期が異なるというのです。如来様のお慈悲の働きは、あらゆる命の上に働き続けます。そこから漏れる命はありません。今、仏法を聞く気のない人々も、批判的な人々も、必ずいつかその花が開く日がくるというのです。そうはいっても、仏法を喜べないまま命終わっていく人々は、たくさんいるではないかと疑問に思われるかもしれません。それは、その通りですが、私というのは、今生の何十年かが全てではありません。今生は、命の世界全体からすると、ほんの一部に過ぎないと如来様は、教えてくださいます。今、仏法を聞いて喜べる身にさせていただいている方々も、生まれ変わり死に変わりする中、果てしない時間をかけて如来様のお慈悲に育てられてきたのでしょう。
 お慈悲というのは、慈しみ悲しむと漢字で表すように、それは、簡単に言うと他の命と共感していく心のことです。人であれば、誰もが抱えなくてはならないのが、苦悩です。これは、苦労とはまた異なるものです。苦労というのは、人に語ることが出来ます。それは、既に解決し乗り越えることが出来たものです。苦労は、笑顔で語ることが出来るのです。しかし、苦悩というのは、人に語ることはできません。本当に苦しみ悩んでいる時は、それを言葉にして、人に語ることはできません。自分一人が抱え、背負っていかなければならないのです。長く生きるということは、この苦悩を多く背負っていくということでもあるのでしょう。ですから、長生きするということは、決して楽なことではありません。
 しかし、この自分ではどうすることもできない苦悩を抱えるからこそ、人は、如来様のお慈悲に出遇っていくことができるのです。誰にも語ることが出来ない、そんな苦悩に共感していく働きが、阿弥陀如来のお慈悲です。お念仏申す者にとって、苦悩は、もはや自分一人が抱え背負っていくものではありません。それを一緒に抱え背負ってくださる如来様がいらっしゃるのです。そして、汚い泥を吸い上げ、見事な美しい花を咲かせる蓮のように、如来様のお慈悲は、その苦悩の上にお悟りの花を咲かせていきます。
 お歳を重ねる中で、如来様のお慈悲が響いてこられた姿は、まさしく、そのことを如実に表しています。私の口からこぼれる「ナマンダブツ・・・」は、私の苦悩の中に響く、温かなお慈悲そのものです。お念仏申し、お慈悲を味わう中に、苦悩が徳に転ぜられていく世界があります。何とも思わなかったお慈悲が、ありがたく響き、お念仏申そうという心が起こったならば、それは、如来様の果てしなく長いお育てが、やっとここに実を結んだということです。そのことを、喜ばせて頂きたいものです。


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