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平成26年9月
  先日、日曜学校を卒業した中学生の女の子二人が、夏休みの宿題で、正法寺のことを調べに来てくれました。あらかじめ、用意してきた質問に答えていくというものでしたが、中には、思いもよらない鋭い質問もあって、思わずたじろいでしまう場面もありました。住職が、思わず言葉を詰まらせた質問の一つは、次のものです。

「天台宗と浄土真宗は、何がどう違うのですか?」

 天台宗と浄土真宗については、正法寺が、元は天台宗のお寺であったのが、浄土真宗のお寺に変わったことを調べてきた上での質問でした。中学生に、これを簡潔に説明するのは、非常に難しいことです。「天台宗は、自分の力で仏様に成ることを目指すみ教えで、浄土真宗は、阿弥陀如来様の力で仏様に成ることを目指すみ教えです」とだけしか答えられませんでした。中学生二人は、日曜学校に通ってくれていたこともあり、うんうんと頷いて聞いてくれましたが、住職自身が、すっきりしない思いを持ってしまいました。
 そもそも、仏様に成ることを目指すみ教えが仏教ですが、この「仏様に成る」ということ自体が、非常に分かりにくいものです。また、それが理解できたとしても、「仏様に成りたい」と、本当に思えるかどうかも問題です。この「仏様に成りたい」という心を、仏教では「菩提心(ぼだいしん)」といいます。「仏様に成りたい」という心は、仏教では、スタート地点に立つことですから、菩提心は、本来なくてはならないものです。
 しかし、このなくてはならない菩提心を、起こす必要がないと、明確に否定されたのが、法然聖人でした。この菩提心を否定する立場は、当時、日本仏教の中心であった比叡山天台宗や奈良の興福寺を中心とする南都六宗から痛烈な批判を浴びていきます。これらの批判は、当然のことでもありました。「仏様に成りたい」という心が必要ないのであれば、「仏様に成ることを目指す」仏教そのもののみ教えが成立しません。この法然聖人の姿勢は、国家をあげての念仏弾圧へと繋がっていくことになります。
 法然聖人のご往生後、これらの旧仏教教団や国家の批判に対して、その教説の正統性を理論的に証明していこうとされたのが、弟子の親鸞聖人だったのです。法然聖人や親鸞聖人が、菩提心を起こす必要がないと主張されたのは、起こすことのできない凡夫の現実を見つめておられたからでした。
 仏様というのは、あらゆる命を平等に慈しみ愛し、悲しみを背負っていくような存在です。「あらゆる命を平等に」というのは、極端に言えば、我が子の命も、蛆虫一匹の命も、同じように慈しみ愛していくということです。はたして、私達に我が子の命とまったく同じように、蛆虫一匹の命を愛することが出来るでしょうか。私達は、自分の都合に合うものを愛し、都合に合わないものを憎しみ、それ以外の者に無関心でいるのです。私達が、起こす愛は、自分の都合を基準にした愛欲ですから、ある日突然、愛が憎しみに変わったりします。怨愛平等の仏様の世界を目指すというのは、実は、想像することも出来ない世界を目指すということなのです。修行どころか、それを始めるスタート地点に立つことすら出来ないのが愚かな私の姿であるというのが、法然聖人や親鸞聖人の自己に対する内省でした。
 浄土真宗というみ教えは、私が、仏様を目指すみ教えではないのです。菩提心を起こすことなく仏様に背き、どこまでも逃げていく私を、仏様の方が追いかけ摂め取ってくださることを聞かせていただくみ教えなのです。もし、私が、仏様の尊さに気づいていくことがあるなら、それは、仏様の救いの働きによるものです。必ず救うと誓われた仏様の働きによって、知らず知らずのうちに、育てられ導かれたのです。
 中学生の二人は、最後に「このお寺で何を伝えて、何を一番遺していきたいですか?」と質問してくれました。「どんな人間、どんな命でも、仏様に願われ愛されているということです。」と答えました。
 私達のお寺が、何を聞くためにあるのかを知ることは、とても大切なことです。永い歴史を重ねてきた意味を、改めて、大切にさせていただきましょう。

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