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平成27年8月
 先日、ある御門徒の方から、大変、ありがたいお話を聞かせていただきました。
住職
「〇〇さんのお家は、昔から、お寺の世話をよくしてくださったそうですね。先代の御当主は、長い間、総代も務めてくださっていたと聞いていますが、、、」
御門徒
「お爺ちゃんは、何十年もお寺のお世話をさせていただきました。でも、お爺ちゃんは、お寺のお世話を喜びにしていました。毎日、お仏壇の前に座って、お念仏を称えていたことが思い出されます。最後、亡くなる直前も、意識がないのに、お念仏を称えていました。病院の看護婦さん達が、それを見てびっくりして、『まだですよ』というようなことを言っていました。お爺ちゃんは、そんなつもりで称えていたのではないと思いますけどね。」
 浄土真宗は、お念仏を称えることを生活の根本として教えるものです。いくら教えを聞いたとしても、念仏を称えるということがなければ、教えを聞いたことになりません。念仏を称えるというのは、「南無阿弥陀仏」と口で称えることです。音にすると「なもあみだぶつ」「なまんだぶつ」「なまんだぶ」と様々ですが、発音に細かくこだわる必要はありません。よく、御門徒の方からのご質問で、お念仏の正しい発音について尋ねられることがあります。正しい発音で称えなければ、お念仏の効果がないように思われているのでしょうか?一説によると、お弟子の方々が書き残されたものから、親鸞聖人のお念仏の発音は、「なまんだ…」と最後の「ぶつ」は、ほとんど声に出していなかったとされています。
 お念仏というのは、私の称え方で、その功徳に変化があるものではありません。誰が、どこで、どのような姿で、どんな風に称えようとも、お念仏の功徳には変わり目がないというのが、法然聖人や親鸞聖人の教えの最大の特徴なのです。どうしてかというと、お念仏は、称えるところに意味があるのではなく、聞くところに意味があるからです。人に聞かせるのではありません。私自身が聞かせていただくのです。何を聞かせていただくのかというと、私一人に届いている阿弥陀如来のお心を聞かせていただくのです。それが、聞こえていれば、どんな称え方でも構わないのです。大切なのは、その言葉に、どんなメッセージが込められているかを受け止めていくことです。ここが、ただの呪文とは違うところです。
 お念仏というのは、呪文のように、意味の分からない言葉を、ただ称えればよいというものでは決してありません。お念仏は、その人の人生を支え、その人の死を根本から包み込んでいく仏様の導きの言葉なのです。
蓮如上人が、主計(かずえ)という男性の御門徒に「お念仏申しておるか?」と尋ねられたことがあります。ありがたい念仏者だった主計は、「はい、いつも仕事をしながらお念仏申しております。」と答えられました。それに対して蓮如上人は、「仕事をしながらお念仏申すのではないぞ、お念仏を申しながら仕事をするのだぞ。」と主計の心得違いを正されたことが伝えられています。私達は、どこまでも自分のことが中心で、お念仏のお話を聞かせていただいても、「自分の人生に役立つなら、、」という程度で聞いているのではないでしょうか?
 自分の都合に役立つか、そうでないかという視点に立つ限り、お念仏のお心は響かないでしょう。親鸞聖人が、称えておられたお念仏は、私が救われるために称えるお念仏ではなかったのです。称える一声一声に、阿弥陀如来が私の悲しみを背負い、私の命を慈しんでいる仏の心を聞いておられたお念仏だったのです。口から零れるお念仏の一声一声に無上の感動と安らぎを味わい、決して揺らぐことのない仏様のお心に包まれながら、力の限り生き抜かせていただくのが、浄土真宗の念仏者の姿なのです。
 意識のない私も、悲しんでいる私も、怒っている私も、喜んでいる私も、驕っている私も、如来様の方は決して変わることなく「なまんだぶ、なまんだぶ」と、その時その時の私を慈しみ愛してくださっているのです。お寺でのお聴聞を大切にして、お念仏申さずにはおれない、深い喜びの毎日を命ある限り送らせていただきましょう。
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