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平成28年2月
 先日、保育園の園長が集まる会合で、お二人の園長先生方の雑談に交わらせていただく機会がありました。A園長は、浄土真宗のお寺の御住職でもあります。それは、次のようなお話でした。
  • A園長「私は、昔、病気をしているから、そろそろ引退のことを考えているんです。」
  • B園長「あの病気の時は、私は、A先生は、もう死ぬんだろうなと思っていましたからね。大変でしたよね。」
  • 住職「そんな大きな病気をされているんですか?」
  • A園長「初めは、膀胱癌でね、膀胱は、全部が癌細胞のような状態でした。その後、肺にも癌の転移が見つかって、肺も、今は、片一方しか残っていません。だから、私は、声が小さいでしょう。」
  • 住職「ぜんぜん、知りませんでした。何年ぐらい前の事ですか?」
  • A園長「もう十年以上前です。五十歳の時でね、娘は、まだ中学一年でしたし、自分が死んだら、どうなるんだろうかと随分悩みましたよ。でも、病気の状態からすると、助からないだろうなと自分でも思っていました。そうすると、今度は、死に方について、色々考えるようになるんですよ。最後に、無様な姿を家族には見せたくないなとかね。でも、考えれば考えるほど、不安に押しつぶされそうになるんですよ。」
  • B園長「誰でもそうなりますよ。」
 その時、A園長が、住職の耳元に近づいて来られて、小さな声で「お念仏でよかったですよ」とおっしゃいました。その後、A園長と二人になった時に、改めて、その言葉の真意を聞かせていただいたのです。
  • A園長「普段、仏法を聞かせていただいていても、いざ、自分のことになったら慌てますねぇ。死に様は、問わないと普段から聞かせていただいていても、やっぱり考えてしまいました。でも、ああなってみて実感しましたが、本当に何もできないんだなと思いました。お念仏で良かったと本当に思いましたよ。」
 浄土真宗中興の祖と讃えられる蓮如上人という方が、「後生の一大事」という言葉を使って、仏法をお説きくださっています。「後生の一大事」というのは、「自分というものは、死んだらどうなるのか」という問題です。それは、言い方を変えれば、「生まれ、生きて、死んでいく、自分というものは、いったいどんな意味をもった者か」という問題でもあります。誰もが、この一大事を抱えています。仏法を聞くというのは、この後生の一大事の解決のために聞かせていただくのだと、蓮如上人は、お説きくださるのです。
 普段は、誰もが、少なからず、今まで生きてきた自分に対する自信を持っています。人生、何十年か生きていれば、自分の力で成し遂げてきたことも多くあるのが普通でしょう。しかし、死んでいくという現実に直面した時、その自分が、まったく役に立たない者であることに直面するのではないでしょうか。死を前にしたとき、ただ立ちすくむしかないのが、本当のところでしょう。
 病に侵された体で、壮絶な苦しみに耐えながら、力が尽きるまで修行し続けることを教える仏教もあります。それに耐え得る者は、聖者(しょうじゃ)と呼ばれます。仏や菩薩の境地を自力で開いていく聖なる者という意味です。しかし、多くの人は、自分ではどうしようもない弱さを抱えているのではないでしょうか。人の目に怯え、過ぎ去った過去に振り回され、未だ来ない未来に不安を抱く、そういう弱さを抱え、どこまでも深い不安を抱くものを、仏教では、聖者ではなく凡夫(ぼんぶ)というのです。お念仏のみ教えは、そのような弱さを抱えた凡夫の為に、説かれたみ教えなのです。どうしようもない無力感に襲われる時、同時に、普段聞かせていただいているお念仏が、生きた仏様の働きとして響いていくのではないでしょうか。
 「お念仏でよかったですよ」の一言には、何とも言えない明るさが満ちていました。不安の中に、必ずお慈悲は響いてくださいます。普段から、大切に聞かせていただきましょう。
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