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平成28年4月
 毎月、お寺の掲示板に二つの法語を掲示させていただいています。今月は、大谷光真前門主と、昨年ご往生された梯実円和上のお言葉を掲示しています。
大谷光真前門主のお言葉は、次のものです。
「誰もが、いずれは老いていく。それもまた人間のつとめなのです。」
梯実円和上のお言葉は、次のものです。
「死んで可哀そうにというけれど、可哀そうなものになるために、今まで生きてきたんと違いますよね。」
 どちらのお言葉も、老いと死という避けることのできない人生の問題を、仏教者の立場からお示しくださったものです。世間では、老いるということと死ぬということは、人生にとってマイナスな事として捉えられています。テレビ番組では、毎日、健康番組が放映され、見た目を若く保っている芸能人が、あこがれの的として、もてはやされています。人間は、大昔から、不老不死の法を追及してきました。歴史上の有名な権力者たちが、様々な健康法を試していたことは、よく聞く話でしょう。
 仏教の世界でも、不老不死の法を求めた有名な人物がいます。今から約一五〇〇年ほど前に中国で活躍された曇鸞大師(どんらんだいし)という方です。親鸞聖人は、この曇鸞大師を、ご自身のお名前に一字を用いるほど尊敬されていました。
 曇鸞大師が、まだ、若かったころ、『大集経』という大変難解で膨大な量の経典を注釈しようと思い立たれましたが、途中で病気になられ、注釈を成し遂げるために、不老不死の法を求められたといわれています。当時、道教の権威として有名であった陶隠居(とういんきょ)という師を訪ね、不老不死の術とその術が説かれた仙経を授けられたといいます。しかし、その帰り道、たまたま菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)という高僧に出くわします。仏教の高僧として有名だった菩提流支三蔵に曇鸞大師は、仏法の中に不老不死の仙術にまさるものがあるのかどうかを尋ねます。すると、菩提流支三蔵は、大地に唾を吐いて、その質問の愚かなることを笑い、不老不死の法は、仏法にまさるものはないことを力説し、曇鸞大師に『仏説観無量寿経』一巻を授け、反省を促したといいます。曇鸞大師は、菩提流支三蔵の言葉に深く感動し、その場で仙経を焼き捨て、それ以来、浄土の教えに深く帰依されたことが伝えられています。
 この曇鸞大師の説話は、大昔から人間が求めてやまなかった不老不死の法を超える道が、仏法の中に説かれてあることを教えるものです。お釈迦様が、お説きくださっているように、あらゆるものは留まることなく移り変わる無常の中に身を置いています。いかなるものも無常の道理から逃れることはできません。仏教が、教えているのは、無常に抗い逃げていく道ではなく、むしろ、その無常を受け入れ超えていく道なのです。世間では、無常に抗い逃げていくことを教えます。確かに、世間が教える方法で、老化を遅らせたり、健康を保つことはできるのでしょう。しかし、それは、問題を先送りにしているだけなのです。
 老いていくことを、人間のつとめだといい、死んで可哀そうと受け止めることこそ可哀そうな生き方だと教えるのが仏教です。「つとめ」というのは、「責任をもってしなければならない」ということでしょう。老いという現実から目を背けるのではなく、老いと向き合い、豊かにその老いの現実を受け入れていくことが、人間のつとめなのです。老いていくことも、ありがたいこととして喜んでいける世界があるのです。また、死んでいくことを不幸なこととして、どこか他人事として「可哀そう」と口にすることも、人生を虚しくする生き方でしょう。誰もが、必ず死んでいくのです。梯和上がおっしゃるように、私は、可哀そうなものになるために生きているのでしょうか。死は、いつどんな形で訪れるのか分りません。私たちは、可哀そうなものになるような不気味な死を背負って生きるよりも、温かい仏様になっていくようなお浄土に包まれて生きる人生を歩まなければならないのです。老いることも死ぬことも、如来様のお心の中で味わえば、まったく異なる意味が開けてきます。やはり、仏法を大切に聞かせていただくことが、人間のつとめなのでしょう。
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