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平成28年8月
 先日、ある御門徒のご法事の折、お斎の席で、次のようなお話をご親戚の方とさせていただきました。
ご親戚
 「私も、今年の三月で、完全に仕事の方を辞めまして、今は、色々な趣味を楽しみながら過ごしています。」
住職
 「どんな趣味をお持ちなんですか?」
ご親戚
 「色々やりますよ。スポーツは、バトミントンをやっていますし、将棋や囲碁にもはまっています。魚釣りも楽しいですね。」
住職
 「バトミントンと将棋ですか。晴れても、雨が降っても大丈夫ですね。」
ご親戚
 「はい。でも、楽しいのですが、いつもご法話で話される生老病死の不安というのを、私も歳を重ねるごとに感じてきますね。最近、幸福って何なのかなって思うことがあるんです。仏教でも、幸福ということを説くのですか?」
住職
 「もちろんです。でも、一般的に人が求める幸福を仏教は否定します。それで、仏教が幸福を説くイメージがないのかもしれませんね。」
 人は誰でも、幸福でありたいと願っています。おそらく、それは人だけではないでしょう。命あるものは皆、幸福でありたいと願っているのではないでしょうか。幸福の価値観は、立場によって様々でしょう。しかし、共通しているのは、その人の都合や望んでいることが、そのまま満たされるということではないでしょうか。思い通りに自分の願望が満たされていく、そんな楽園を私たちは、求めているのでしょう。しかし、私達が盲目的に求める楽園を真っ向から否定されたのが、お釈迦様なのです。
 親鸞聖人のみ教えを世に正しく広められ、中興の上人と讃えられる本願寺第八代御門主の蓮如上人が遺されたお言葉に次のようなものがあります。
「されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。」
 極楽という世界が、自分の願望が満たされていく楽園だと受け止めて、その世界に生まれたいと望むような人は、仏には決して成れないというのです。「楽しみが極まる」と書いて、極楽です。しかし、仏教で説く楽しみは、自分の願望を満たすことではありません。それは、「遊ぶ」という言葉でも表されていきます。私達にとって、「遊ぶ」というのは、自分の趣味を楽しむというように、自分の願望を満たすためのひと時を意味しています。しかし、仏教で使われる「遊ぶ」という言葉の意味は、少し異なります。親鸞聖人が著された『教行信証』には、「遊ぶ」という言葉が、よく出てきます。その一つをご紹介しましょう。
「煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといへり。」
 これは、曇鸞大師という高僧のお言葉を引用されたものです。「煩悩の林に遊んで・・・」というのは、人々の悲しみや苦しみを背負い、人々の幸せを実現していくことを表現しています。自分の欲望を満たすのではなく、逆に、人々の悲しみを背負っていくことを「遊ぶ」と表現しているのです。仏教の楽しみというのは、人々の悲しみや苦しみを自由自在に背負える身になることをいうのです。
 自分の欲望を満たそうと貪る先には、自分も他人も傷ついていく世界しか訪れません。なぜなら、それぞれに望むものは異なり、傷つけ合わないと、手に入れることはできないからです。邪魔者は、消えてもらわなければならないというのが、欲望を貪る者のお互いの言い分でしょう。また、人の欲望には限りがありません。
 本当の幸せというのは、愛する者があって、初めて実現することなのではないでしょうか。自分以外の愛する者の為に、悲しみ喜んでいける人は、幸せな人だと思います。そして、自分の都合を一切離れて、あらゆる生きとし生ける者を愛することのできる存在が、仏様なのです。仏様こそ、本当の幸せの中に生き続ける存在であり、その幸せの中から、私達に語りかけてくださるのです。その言葉を聞かせていただく中に、本当の幸せが何であるのかを知らせていただくのでしょう。
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