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平成28年10月
   先日、三十歳代〜四十歳代の男性の方々と、お寺で懇親会を開いた時のことです。働き盛りの方々ばかりの中、自然と話題は、仕事の話になりました。それぞれに、色んな苦労があることを、愚痴をこぼすように話されていました。しかし、決して暗い雰囲気ではなく、笑いが絶えずこぼれるような懇親会でした。その時、三十歳代の男性の方が、冗談めかした口調で、次のようにおっしゃったことが印象的でした。
「しんどいことばっかりですけど、お念仏申しながら、がんばるしかないですね。」
 若い方々にも、お寺とのご縁を結んでほしいとの思いで開いた懇親会でしたが、正直、仏法の話題が上がることは期待していませんでした。おそらくご本人も、それほど深い意味を込めて口にした言葉ではなかったと思います。しかし、それが、冗談でも口にできることが有り難いのです。
 先日、九月三日(土)に第三十四回の公開講演会が開かれ、ルーマニア人布教使のコソフレット・アテナ・ガブリエラ先生をお招きしました。アテナ先生のお話の中で、印象的だったのが、初めて日本社会に触れた時の感想でした。ルーマニアやヨーロッパの国々では、雑談の中で、お互いに何の宗教を持っているかが話題になるそうです。一方で、日本人は、その人が何の血液型かが常に話題になるといいます。しかし、ほとんどの人が無宗教であることを主張し、宗教に無関心でありながら、多くの人が、食事の時に手を合わせて頭を下げている姿や「おかげさまで」という謎の柔らかい言葉を使ったりしているのが不思議だったそうです。それらの姿が、非常に宗教的な姿に見えてしかたがなかったといいます。その後、仏教に出遇い、仏教のことを学んでいく中で、日本人のあの宗教的に見える姿は、仏教に育てられた姿であったことを知ったそうです。
 キリスト教徒は、食事を用意してくれた人に感謝することはあっても、食事そのものに感謝するという発想がないそうです。しかし、仏教は、人間の食べ物になる命であっても、命には、平等に尊い価値があることを説きます。また、キリスト教では、縁ということを説きません。神が起こした奇跡として神に感謝していきます。しかし、仏教は、色んな繋がり、色んな働きの中で、今の自分があることを説きます。「おかげさまで」という一言に、その縁というものを感じていく心が込められています。仏教というものを全く意識していない中で、自然と仏教的な感覚が身についているのが、外国人から見た、日本人の不思議なところだそうです。
 親鸞聖人の有名なお言葉の中に、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ、、、」というものがあります。たまたま仏法に出遇い、仏様のみ教えを聞き喜び、お念仏を申すような身になったならば、はるか遠い昔から、私を育ててくださった尊い因縁があったことを慶びなさい。という意味です。私一人の力で、物事は、成しえていくのではありません。まして、運が良かったからでもありません。多くの計り知れない心や出来事が、関わり合い、重なり合い、実現しているのです。そして、また、その実現したことも、多くの出来事に関わって、別の何かを実現させていくのです。多くの網の目のような無数の関わり合いの中で、私というものは、あらしめられているというのが、仏様のみ教えです。
 そうしますと、私の人生には、目に見えない様々な心、様々な物事が関わっているということです。私にとって良いことも、私にとって悪いことも、無数の関わり合いの中で起こってきたことならば、有り難いことではないでしょうか。まして、地獄行きの凡夫でしかない私が、仏法を聞き、喜ぶようになったならば、それは、多くの心や出来事が、私をここまで育ててくれたとしか言いようがありません。そんな不思議な働きを、阿弥陀如来のお慈悲の心の上に大切に味わってきたのが、浄土真宗の伝統でしょう。冗談でも、仏法のことが口にできる、意識していなくても、仏法的な考えや行動ができている、というのは、本当に有り難いことです。
 無数の心とその働きが、私を守り育ててくれています。今があることの不思議を受け止め、いただいたご縁を大切に味わってゆける毎日でありたいものです。
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