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平成29年4月
 先月、保育園のご縁で、雷門で有名な天台宗の古刹、東京の浅草寺にお参りさせていただくことがありました。生まれて初めてお参りさせていただきましたが、参詣者のあまりの多さに驚いたことでした。参道の両脇には、たくさんのお店が立ち並び、前が見えないほどの人だかりです。境内に入ると、今度は、両脇におみくじやお札が売られている建物があり、そこも、すごい人だかりでした。私達のご本山である京都の西本願寺と比べると、参詣者の数は、圧倒的に浅草寺の方が上です。西本願寺は、普段、前に進めないほどの人だかりになることは、まずありません。お寺に、なかなか人が集まらない時代に、これだけの人々がお参りされるお寺というのは、正直、すごいことだと思いました。
 しかし、同じ仏教寺院でも、浅草寺と西本願寺とでは、決定的に異なる点があります。それは、おみくじやお札です。おそらく、これが、圧倒的な参詣者の数の差をもたらしている大きな要因の一つだと思います。私達のご本山、西本願寺では、おみくじやお札は、売っていません。また、全国の浄土真宗のお寺でも同様に売っているお寺は、一ヶ寺もありません。もし、浄土真宗のお寺で、おみくじやお札を売るようなことがあれば、浄土真宗から破門されなければならないでしょう。それは、おみくじやお札に頼ることは、親鸞聖人のみ教えに反することだからです。
 しかし、親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを否定されたのは、特別な思想をお持ちになられたからではありません。それが、本来、仏教の教えにそぐわないものだったからなのです。そもそも、仏教というのは、どの御宗旨においても、人間が抱える根本苦を超えていく道が教えられているものです。その根本苦を、仏教では、生・老・病・死という四苦と愛する者と別れなければならない愛別離苦・怨み憎むべき者に会っていかなければならない怨憎会苦・求める物が得られない求不得苦・肉体と精神が思うがままにならない五蘊盛苦の四つ苦しみを加えた四苦八苦として示されます。人間として生きる限り、決して避けることのできない苦しみです。この決して避けることのできない苦しみを、人間というのは、何とか避けようとして生きようとするのです。その人間の願いを叶えようというのが、おみくじやお札です。
 自分自身が、思いがけない病に侵されたり、大切な身内が次々と死別していくような不幸に見舞われた時、なぜ自分だけが、こんな目に合わなければならないのかと自分の境遇を恨んでいきます。このような不幸が自分の身には降りかからないように生きていきたいと願うのが、人としての当たり前の姿でしょう。誰もが、自分と自分の身内の幸せを願うのです。そして、その幸せが侵されていくことに、人は、大きな不安を抱いていきます。その不安に突き動かされて求めていくのが、おみくじやお札なのです。しかし、おみくじやお札は、その不安を誤魔化すことはできますが、本当の解決にはなりません。おみくじやお札に頼ったところで、人は必ず、老いて病んで死んでいくのです。愛する者と別れていくことも憎むべき相手に出会っていくことも、相変わらず繰り返していきます。
 浄土真宗の僧侶や御門徒方も、八百年という永い歴史の中で、戦争や疫病、大災害など、数限りない不幸に見舞われてきました。しかし、その度重なる苦難の中で、一度もおみくじやお札に頼ることのない歴史を重ねてきたのです。これは、仏教徒として誇るべきことだと思います。お釈迦様が避けることができないと教えておられるものを、避けようと右往左往することは、仏の教えの言葉を聞こうともしない外道の人々の姿です。親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを厳しく批判されたのは、それが、仏教徒としてあってはならない姿だからなのです。
 仏様の教えの中に、避けることのできない人間苦を超えていく道は、すでに開かれています。それを正しく聞き受け実践していこうとするのが、本当の仏教徒です。浄土真宗は、お念仏を申すという生き方の上に、その道を歩ませていただくのです。私の不安を、阿弥陀如来様は、お念仏となって、そのまま抱いてくださいます。私のことを、決して離さない大悲の親様です。どんな時でも、南無阿弥陀仏は、大丈夫と響き続けてくださいます。どんな不幸なことの中にも、尊い意味があることを教えてくださいます。老いて病んで死んでいく人生が、そのままで如来様から慈しまれるほどの尊い意味を持っていることに出遇っていくのです。 先月、保育園のご縁で、雷門で有名な天台宗の古刹、東京の浅草寺にお参りさせていただくことがありました。生まれて初めてお参りさせていただきましたが、参詣者のあまりの多さに驚いたことでした。参道の両脇には、たくさんのお店が立ち並び、前が見えないほどの人だかりです。境内に入ると、今度は、両脇におみくじやお札が売られている建物があり、そこも、すごい人だかりでした。私達のご本山である京都の西本願寺と比べると、参詣者の数は、圧倒的に浅草寺の方が上です。西本願寺は、普段、前に進めないほどの人だかりになることは、まずありません。お寺に、なかなか人が集まらない時代に、これだけの人々がお参りされるお寺というのは、正直、すごいことだと思いました。
 しかし、同じ仏教寺院でも、浅草寺と西本願寺とでは、決定的に異なる点があります。それは、おみくじやお札です。おそらく、これが、圧倒的な参詣者の数の差をもたらしている大きな要因の一つだと思います。私達のご本山、西本願寺では、おみくじやお札は、売っていません。また、全国の浄土真宗のお寺でも同様に売っているお寺は、一ヶ寺もありません。もし、浄土真宗のお寺で、おみくじやお札を売るようなことがあれば、浄土真宗から破門されなければならないでしょう。それは、おみくじやお札に頼ることは、親鸞聖人のみ教えに反することだからです。
 しかし、親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを否定されたのは、特別な思想をお持ちになられたからではありません。それが、本来、仏教の教えにそぐわないものだったからなのです。そもそも、仏教というのは、どの御宗旨においても、人間が抱える根本苦を超えていく道が教えられているものです。その根本苦を、仏教では、生・老・病・死という四苦と愛する者と別れなければならない愛別離苦・怨み憎むべき者に会っていかなければならない怨憎会苦・求める物が得られない求不得苦・肉体と精神が思うがままにならない五蘊盛苦の四つ苦しみを加えた四苦八苦として示されます。人間として生きる限り、決して避けることのできない苦しみです。この決して避けることのできない苦しみを、人間というのは、何とか避けようとして生きようとするのです。その人間の願いを叶えようというのが、おみくじやお札です。
 自分自身が、思いがけない病に侵されたり、大切な身内が次々と死別していくような不幸に見舞われた時、なぜ自分だけが、こんな目に合わなければならないのかと自分の境遇を恨んでいきます。このような不幸が自分の身には降りかからないように生きていきたいと願うのが、人としての当たり前の姿でしょう。誰もが、自分と自分の身内の幸せを願うのです。そして、その幸せが侵されていくことに、人は、大きな不安を抱いていきます。その不安に突き動かされて求めていくのが、おみくじやお札なのです。しかし、おみくじやお札は、その不安を誤魔化すことはできますが、本当の解決にはなりません。おみくじやお札に頼ったところで、人は必ず、老いて病んで死んでいくのです。愛する者と別れていくことも憎むべき相手に出会っていくことも、相変わらず繰り返していきます。
 浄土真宗の僧侶や御門徒方も、八百年という永い歴史の中で、戦争や疫病、大災害など、数限りない不幸に見舞われてきました。しかし、その度重なる苦難の中で、一度もおみくじやお札に頼ることのない歴史を重ねてきたのです。これは、仏教徒として誇るべきことだと思います。お釈迦様が避けることができないと教えておられるものを、避けようと右往左往することは、仏の教えの言葉を聞こうともしない外道の人々の姿です。親鸞聖人が、おみくじやお札に頼ることを厳しく批判されたのは、それが、仏教徒としてあってはならない姿だからなのです。
仏様の教えの中に、避けることのできない人間苦を超えていく道は、すでに開かれています。それを正しく聞き受け実践していこうとするのが、本当の仏教徒です。浄土真宗は、お念仏を申すという生き方の上に、その道を歩ませていただくのです。私の不安を、阿弥陀如来様は、お念仏となって、そのまま抱いてくださいます。私のことを、決して離さない大悲の親様です。どんな時でも、南無阿弥陀仏は、大丈夫と響き続けてくださいます。どんな不幸なことの中にも、尊い意味があることを教えてくださいます。老いて病んで死んでいく人生が、そのままで如来様から慈しまれるほどの尊い意味を持っていることに出遇っていくのです。私の掛け替えのない人生を、そのままで喜ばせていただける、尊い毎日を歩ませていただきましょう。
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