「お浄土へ参る」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の葬儀の折、前日に喪主様から、次のようなお尋ねをいただきました。

 「明日の葬儀で、参詣者の皆様に御礼のご挨拶をさせていただくのですが、お浄土のことを言う場合、『お浄土へ旅立った』という言い方でよろしいですか?それとも、他の言い方の方がいいでしょうか?どのように言うのが、正しいのでしょうか?」

大きな悲しみの中、流れに任せてしまうのではなく、浄土真宗のみ教えに正しく順おうとされる丁寧なお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

このお尋ねに対しては、「『お浄土へ参った』の方がよろしいかと思います。」とお答えいたしました。「お浄土へ旅立つ」と「お浄土へ参る」、この二つの表現は、同じようで大きな違いがあります。「旅立つ」という言葉は、「今から目的地に向かい始める」という意味を表わしています。お浄土という目的地へ旅立つのは、死んでからでしょうか?いえ、そうではありません。お浄土へ旅立つのは今なのです。

そもそも、私達は、目的地を持って、この世界に生まれてきたわけではありません。目的地を持たない姿を「迷っている」といいます。わけが分からないまんま、手のつけようのないところで生まれてきた私達は、何のために生きるのでしょうか?この私の命は、何のためにあるのでしょうか?一生懸命に生きた人生は、死んで終わっていきます。死んで終わっていく人生に、どんな意味があるのでしょうか?このような誰にも答えようのない素朴な命の問いを、誰もが一度は心に持ったことがあるのではないでしょうか?人は死んでから迷うのではなく、生まれた時から迷っているのです。迷っている自分、どこか落ち着かない自分に問いを持つことが、人が人である所以でしょう。人は、本来、生まれながらにして、正しい人生の方向性、落ち着いて歩むことの出来る目的地を求めているのです。

この点について、人と仏様との違いを伝承するものに、お釈迦様の誕生の物語があります。伝承では、お釈迦様は、お生まれになってすぐ立ち上がり、七歩歩かれたとされます。そして、天と地を指さされ「天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之」とお話されたとされています。これは、とても事実とはいえない伝承ですが、伝承というのは、事実かどうかはあまり問題ではありません。大切なのは、どんな意味が込められているのかということです。これは、仏様として讃えられるお釈迦様が、普通の人とは違い、生きる意味と人生の目的をしっかりと確認し、実に落ち着いた人生の歩みをされていたことを教えているのです。

「天上天下唯我独尊」というのは、「世界中で私ほど尊い者はいない」という意味です。その理由が、次の句です。次の句は「三界皆苦我当安之」です。これは、「世界中の命ある者は、みんな苦しみを抱えている。その苦しみ、悲しみを安らかにするために私は生まれてきたのだ」という意味です。

お釈迦様に、私は何のために生まれてきたのでしょうか?と問えば、「お前は、人を初めとした様々な命を幸せにするために生まれてきたんだ」と教えてくださいます。この人生の目的は何でしょうか?と問えば、「あらゆる命が抱える苦しみや悲しみを癒やし、安らかにしていくことが、生きる目的だ」と教えてくださいます。人として最も尊く正しい生き方とは、仏様のように、あらゆる命の悲しみに共感し、あらゆる命の安らぎを願いながら生きることであると教えるのが、仏教なのです。

実は、お浄土に生まれていくことを人生の目的とさせていただくことも、基本的には同じことなのです。お浄土というのは、「浄らかな命の領域」という意味です。浄らかというのは、微塵の我も雑じることなく、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命を悲しんでいくことのできる状態のことです。そのような浄らかな状態であることを目指して生きることが、お浄土を人生の目的地として生きるという姿なのです。

お浄土に生まれるというのは、天国という言葉で表現されるような、悲しみや苦しみがなく、自分の都合が満たされていくだけの世界を目指すことではありません。むしろ、浄土とは、人の悲しみや苦しみを引き受けていく世界であり、それは、あらゆる人、あらゆる命を愛おしく愛することのできる世界なのです。

生まれながらにして、深い煩悩と迷いを抱える者に、正しい人生の方向性を教えようとするのが浄土の教えであり、阿弥陀如来の救いの世界なのです。
お浄土へ生まれていくような尊く正しい人生を、今、歩み始めましょう。

2023年4月1日