「如来の大悲に抱かれる」

【住職の日記】

先日、ある御門徒の方から、次のようなご相談がありました。

「最近ずっと心の中が、モヤモヤしてるんです。近くで生活に困っている人がいて、何とか助けてあげたいという思いでいたんですが、私が、何かすることで、逆に、その人を追い詰めてしまうこともあるのかなと思ったりして、どうしていいか分からなくなるのです。でも、何もしないことが、本当に良いこととは思えませんし、、、、」

誰もが、人生において、このような問題に直面したことは、一度や二度ではないでしょう。社会生活を営む上においては、善悪の判断を避けることはできません。しかしながら、善と判断し行動したことが、必ずしも結果として善となるとは限りません。また、逆もしかりです。

世界で最も読まれている仏教書の一つに『歎異抄(たんにしょう)』というものがあります。親鸞聖人の直弟子であった唯円という方が書かれたものと言われています。この書物は、若かりし頃の唯円が、直接、親鸞聖人からお聞きになったお言葉が、記されています。いずれのお言葉も、唯円という個人に対して述べられたもので、非常に情感のこもった親鸞聖人の生の声が響いています。

実は、『歎異抄』に記されている親鸞聖人のお言葉は、そのほとんどが、唯円の質問に答えられたものだと言われています。若かりし頃の唯円の悩みに寄り添い、大切に言葉を紡いでいかれる、そんな親鸞聖人の温かい姿に触れることができます。『歎異抄』を読まれた方なら、誰もが気づくことですが、ここで語られる親鸞聖人のお言葉の多くが、善悪に関することなのです。これは、質問者である唯円の悩みの多くが、善悪に関することだったからでしょう。

そんな『歎異抄』の中でも、善悪の本質について語られるものが、第十三条のお言葉です。それは、親鸞聖人と唯円との実際にあった対話が記されています。まず、親鸞聖人が「唯円は、私の言うことを信ずるか」と尋ねられます。それに対して唯円が、「親鸞聖人のおっしゃる通りにいたします」と答えます。すると、親鸞聖人が、「人を千人殺してくれないか、そうすれば、あなたが極楽浄土に往生することは間違いないであろう」と、とんでもないことをおっしゃいます。もちろん、唯円は、「千人どころか一人の人を殺すこともできません」とお断りになられます。すると、親鸞聖人が、「では、なぜ親鸞の言う通りにするなどと言ったのか」と唯円に投げかけます。唯円は、何も言えなくなってしまいます。言葉を失った唯円に対して、親鸞聖人は、次のようにお諭しになるのです。

「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」

「我が心の善くて殺さぬにはあらず」という一言は、私達に、人の善悪の本質を教えてくれています。人の心は、縁によって様々に姿を変えていきます。穏やかだった心が、ほんの些細なことで、怒りの炎に包まれていくのです。心は、思いのままにできるものではありません。私の力の及ばないところで、縁に振り回され、善が悪に翻り、悪が善に翻り、どうしようもないところに追い詰められていくのでしょう。

親鸞聖人のお言葉を思い返し、唯円は、次のように、そのお心を推し量られます。

「われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。」

親鸞聖人のこのお諭しは、自らの心の善悪ばかりに目がつき、阿弥陀如来に願われている不思議に気づかないことを教えられたというのです。本当の善悪が何であるのか、縁に振り回される凡夫には見通すことはできません。にもかかわらず、善に誇り、悪を蔑み、人の価値を自分勝手な善悪の上に決めつけていこうとするのです。

善悪が常に翻りながら、苦悩していく私の中には、拠り所となるものは何もありません。善人である時の私も、悪人である時の私も、変わることなく慈しみ、しっかりと抱いてくださる如来の大悲心こそ本当の拠り所なのです。

そして、如来の大悲に抱かれるというのは、私もまた、人の悲しみに寄り添える人間に育てられていくということでしょう。善悪に振り回されながらも、人の悲しみに寄り添える身をいただいたことを、大切にさせていただきましょう。

 

 

2022年11月3日