「まは、さてあらん」

今年も、親鸞聖人の御遺徳をしのぶ御正忌報恩講が、三日間にわたって無事勤まりました。年間、正法寺では、様々な行事が勤まっていますが、浄土真宗のお寺が、必ず勤めなければならないのが、報恩講です。親鸞聖人の御生涯を偲び、親鸞聖人の御跡をしたい、親鸞聖人と同じお念仏をいただいていくのが、浄土真宗門徒の姿であり、それを聞き確認する場所が、浄土真宗寺院です。ですから、報恩講が勤まらないお寺は、浄土真宗のお寺とは言えませんし、報恩講のご縁に遇わない方は、浄土真宗門徒とは言えません。しかしながら、昨今は、時代も変わり、遇いたくてもご縁に遇えない方も多くなりました。また、一度もお参りされたことのない方にとっては、なかなか最初の第一歩を踏み出すことは、想像以上に難しいことだと思います。

今年は、大阪府より山本摂叡先生をお招きし、三日間、七法座に亘って、ご法話をいただきました。山本先生は、浄土真宗の僧侶を育てる行信教校という学校の先生でもあり、仏教学者でもあります。七法座の中では、専門的で一般の方には難しいお話しもありましたが、その中でも、住職が、ありがたく味わせていただいたお話しを、一つご紹介いたします。

親鸞聖人の御生涯の中で有名な「まは、さてあらん」という、つぶやきについてのお話です。このお話は、親鸞聖人の奥様であられた恵信尼(えしんに)様という方が書かれたお手紙の中に記されています。こんなお話です。

親鸞聖人が五十八歳の時です。おそらくインフルエンザだと思われますが、親鸞聖人は、高熱にうなされ、一週間程度、寝込まれたことがありました。その時、看病に当たられたのが、奥様の恵信尼様です。高熱にうなされている親鸞聖人が、突然、うわ言のように「まは、さてあらん」とつぶやかれたというのです。恵信尼様が、「どうされましたか?」とお尋ねになると、親鸞聖人は、「夢を見ていた」とお答えになりました。その夢というのが、親鸞聖人が四十二歳の時に経験された、実際の記憶を思い出されたものだったのです。四十二歳の時、親鸞聖人は、常陸に向かわれる途中、佐貫というところで、『浄土三部経』を千回読むことを決意されます。それは、人々の幸せを願い、実現するためのものでした。しかし、その行を始められて四、五日経った時、その行は、法然聖人から頂いたお念仏のみ教えに反する行いだと気づかれて、やめられたのです。その時のことを、十六年経った今、高熱にうなされる中で、夢で見ていたというのです。

その夢から覚められて、「まは、さてあらん」とつぶやかれた、そのお姿を、恵信尼様は、生涯忘れることがありませんでした。そして、親鸞聖人の御跡を慕おうとする後世の人々に、どうしても伝えたかったお姿として、お手紙に遺されたのです。そこに、どんな大切な意味があるのでしょうか。山本先生は、「まは、さてあらん」という言葉の意味は、「今は、そうあろう」と説明されました。人は、自分自身の慢心に惑わされ、仏様のまことの働きを見失っていきます。四十二歳の親鸞聖人は、その時、自分の力に慢心し、自分が努力すれば、苦しむ人々を救えると思ったのです。しかし、私には、人を救う力などありません。人を本当の意味で救えるのは、仏様だけです。私は、その仏様に救われなければならない愚かな凡夫なのです。自らのはからいを捨て、身も心も仏様にまかせていく道がお念仏の仏道です。そのことに気づいた親鸞聖人でしたが、五十八歳の時にも、同じように、仏様に背を向けて、仏様を見失っていこうとする自分自身を丁寧に見つめておられたということです。「今は、自ら余計なはからいをすることなく、素直に仏様のお心に叶う自分であろう」ということを、改めて口にされたということです。

それは、親鸞聖人が歩まれた浄土真宗という仏道は、決して簡単なものではないということを教えています。人は、簡単には変われないのです。教育には、長い時間が必要です。親鸞聖人のような尊いお方でも、仏様のお慈悲に背こうとする自分自身を常に問題にされ、どこまでも謙虚に仏法を聞き続けようとされたのです。私が、抱えている命の問題は、一度二度聞いて、それで事済むような軽いものではありません。 分かっても分からなくても、悩みながら、素直にみ教えを聞き続けることが、親鸞聖人の御跡を慕う、浄土真宗門徒の歩みといえるでしょう。

今年も、様々なご法座が、正法寺では用意されています。お互いに、それほどもう時間は残されていません。何度も何度も、進んでご縁を重ねていく毎日を、大切にさせていただきましょう。

2018年2月15日