「仏様のお心を味わえる日々」

【住職の日記】

先日、ある僧侶の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。

「僕は、大学は宗門の龍谷大学ではなく、一般の国立大学に通っていたんです。その大学時代に、僕は、仲の良かった友人を亡くしているんです。突然死でした。大学生だった自分にとって、仲の良かった友人が、ある日突然亡くなるというのは、本当にショックなことでした。友人の家は、大学から電車で一時間ぐらいの所にありました。しばらく本当に辛くて、毎週、電車に乗って、友人の家のお仏壇にお参りをさせてもらっていました。友人の家も浄土真宗でしたから、お仏壇の前に座らせてもらい、『讃仏偈』をお勤めさせてもらっていました。すると、友人のおじいちゃんが、それを大変喜んでくださって、僕のお勤めの声を録音してくださるのです。その録音した僕のお勤めの声を、毎朝、お仏壇の前で流しているとおっしゃっていました。僕以上に悲しい思いをされてたと思うんですが、うれしそうな笑顔で、いつも僕を迎えてくださるおじいちゃんのお顔が、今でも忘れられないんです。」

読経の声というのは、内容が分からなくても、人を癒やしていく不思議な力があるように思います。以前、あるテレビ番組で、お釈迦様がお生まれになった地として伝えられるネパールのルンビニで、様々な国の僧侶が、それぞれに読経している姿が放映されていました。違う言語を持つそれぞれの国の僧侶が、同じ仏様を敬い、同じように読経している姿は、本当の平和な姿を教えてくださるものでした。

読経というのは、仏教においてとても大切な行の一つです。この世界には、様々な言葉が溢れています。言葉の背後には、それを紡ぎ出した心があります。怒りや憎しみの心が紡ぎ出していく言葉は、人を傷つける力を持ちます。逆に人を愛する心が紡ぎ出していく言葉は、人を救う力を持ちます。また、言葉は、人だけが持つものではありません。動物や虫、草花までもが、みんな言葉を持っています。その中で、仏様の心によって紡ぎ出されたのが、お経の言葉です。お経の言葉に触れることによって、私達は、仏様のお心に触れていくのです。

お経に関わる行いとして、もう一つ写経というものがあります。これは、お経を黙読し、一字一字間違いなく写していく行いです。これも大切な行いですが、仏教では、写経よりも読経が重視されます。

親鸞聖人が大変尊敬された七人の高僧のお一人、善導大師という方も、阿弥陀如来の真実の浄土に生まれていくための正しい五つの行いの一つに、「写経」ではなく「読誦」を上げておられます。「読」は、文字を見て声を出してお経を読むことです。「誦」は、文字を見ずに声をあげてお経を読むことです。「読誦」というのは、黙読するのではなく、声に出して読経することを言います。お経は、声に出して読むことが正しい行いとされるのです。

黙読というのは、ある意味、自分一人の世界で満足していく行いです。黙読している内容は、自分一人にしか届きません。しかし、声に出して読むというのは、そこに集う人々と一緒に仏様のお心を共有することができます。仏様のお心は、みんなで味わい、みんなで喜ぶところに大切な意味があるのです。しかも、声に出して読むというのは、黙読のように、単に頭で理解するだけではありません。その声を耳に聞き、肌で感じ、全身で仏様のお心に触れていくことができます。
仏様のお心というのは、文字でのみ表現されるものではありません。お寺の空間やお仏壇のお飾り、お香などの薫り、仏教徒の雰囲気、そして、読経の響き、あらゆる形を持って、仏様のお心は、私に届けられるのです。それらを感受していくのは、それぞれの心です。仏様のお心は、理屈では説明しきれません。例えば、初めて口にする果実の美味しさを、理屈で説明しきれないようなものです。この美味しさを伝えるには、食べてもらわなければ伝わりません。理解することよりも味わうことが、仏教でも求められるのです。

本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人は、本来、僧侶のみが行っていた読経を、一般の御門徒も行えるものに整えていかれました。『正信念仏偈』が、その代表です。僧侶も御門徒も関係なく、みんなで読経できる形に整えられたのです。それ以後、浄土真宗門徒は、朝夕のお勤めが日課となりました。日常のお勤めを通して、数知れない人々が、阿弥陀如来のお慈悲を味わってこられたのです。
「仏様のことが分からない」と嘆く必要はありません。分かることよりも味わうことが大切です。できることから丁寧に、仏様のお心を味わえる日々を大切に過ごさせていただきましょう。

2023年5月1日