「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」

【住職の日記】

今年も多くの方々の御報謝をいただく中に、無事、御正忌報恩講をお勤めすることが出来ました。コロナ禍の影響もあり、全体的には例年よりも参詣者が少なく、少し寂しく感じたご縁となりましたが、そんな大変な状況の中、お聴聞にお参りをされ、合掌されているお一人お一人のお姿には、頭が下がる思いがいたしました。

今年は、親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年の記念すべき年です。ご本山本願寺では、三月二十九日~五月二十一日まで慶讃法要が厳修されます。しかし、感染症対策のため、参詣者の人数制限が設けられており、たくさんの皆様でお参りできないのが残念です。

立教開宗(りっきょうかいしゅう)というのは、浄土真宗というみ教えが、仏教の中に確立されたことを意味します。仏教の中に新しい宗派が確立されるというのは、けっして容易なことではありません。実際に、親鸞聖人の師匠であった法然聖人は、浄土三部経を拠り所に浄土宗という宗派を確立していこうとされますが、日本仏教の中心であった比叡山や奈良の南都六宗から強烈な批判と拒絶を受けていきます。それが、やがて承元の法難と呼ばれる未曾有の大事件に繋がっていくのです。

承元の法難という事件は、時の権力者であった後鳥羽上皇の命により、法然聖人のお弟子四人が死罪となり、法然聖人を含む七人が流罪となったものです。流罪とは、縁もゆかりもない土地に流し者にされる刑罰です。この時、親鸞聖人も流罪となり、現在の新潟県、越後に流されていかれます。そして、この時、国家の命により国民に対して、念仏を口にすることが禁止されます。

法然聖人の流罪が執行される前日、お別れに集まったお弟子達に対して、法然聖人は、「朝廷は、私を流罪にしたと思っているだろうが、私は、伝道の旅に出るのだと思っている」と語り、続いて「念仏を弾圧した人々は、仏法を攻撃し念仏者を苦しめた報いを必ず受けるでしょうから、よくよく見届けなさい」と語られます。それを聞いたお弟子の一人が、「少しほとぼりが冷めるまで、お念仏のみ教えをお説きにならないように」と助言されたことに対して、「たとえ首をはねられようと、このこと説かであるべきか」と仰せになったと伝えられています。

法然聖人は、どんなに弾圧されようとも、けっしてお念仏を説くことを止めようとはされませんでした。それは、正しい道理を見通す智慧を阿弥陀如来からいただき、大きな安心の中に落ち着いておられたからでした。流し者になるなら流されていく、死罪になるなら死んでいく、どのような状況の中でも、正しい道を正しく歩ませていただくことが大切であり、その正しい道こそ、お念仏を申す人生であることを、自らの生き様の上に示していかれたのです。

その法然聖人が御往生されてから十二年後、親鸞聖人が、『顕浄土真実教行証文類』という六巻からなる書物を完成されます。一般には『教行信証』と呼ばれる浄土真宗の根本聖典です。この『教行信証』の完成の年が、浄土真宗の立教開宗の年とされています。しかし、この『教行信証』という書物は、立教開宗を意図して著述されたものではありませんでした。法然聖人が命がけで示されたお念仏の道が、お釈迦様のお心を受け継ぐ正しい仏教の道であることを、お弟子の立場から、ひたむきに追求し証明していこうとされたものだったのです。しかし、ご生涯をかけて完成していかれる『教行信証』の中には、法然聖人の上では必ずしも明らかでなかった、お念仏の真実性を示していく数々の真新しい道理が明らかにされていたのです。それは、師匠の法然聖人から、その意志を受け継ぎ、必死にお念仏を守ろうとした結果でした。

親鸞聖人というお方は、九〇年の生涯にわたり、法然聖人の弟子の立場を貫かれ、立教開宗の意図も自らが宗祖となる意志も、まったくなかった方なのです。青年期に味わった深い絶望の中で、法然聖人からお念仏申す仏道を教えられ、それを純粋にいただき、絶望した人生を有り難く尊いものとして喜んでいかれたのでした。

それから八〇〇年の時を経て、浄土真宗の門徒として、親鸞聖人のご縁を不思議にもいただいている私達は、とても幸せ者です。なぜなら、親鸞聖人が有り難く尊いものとして喜んでいかれたのと同じ人生を私達はいただくからです。
浄土真宗のお寺は、親鸞聖人が法然聖人を通じてお念仏に出遇われたように、お念仏を喜ぶ様々な人に出遇い、その人達を通して、お念仏に出遇っていく唯一の場所です。記念すべき年が始まりました。お寺の法座にお参りする一歩を踏み出してみましょう。

2023年2月1日