「聴」と「聞」

今年のお盆も大変暑い中でのお勤めでした。しかし、毎年、暑い中にも、住職自身、ありがたいご縁をたくさんいただいています。今年も、あるお宅で、次のようなお話しを聞かせていただきました。

「御院家さん、私は、もう90歳を超えましたが、何とかお寺参りはさせていただけています。耳は遠くなりましたが、なんとか御講師の声は聞こえます。お聴聞させていただくと、『如来様がいらっしゃった、もうすでに抱かれておるなぁ』と、いつも気づかされます。何歳になっても、気づかされるというのは、ありがたいことですなぁ。」

浄土真宗は、「聞く」ということが何よりも大切だと言われますが、改めて、聞くことの大切な姿勢を教えられた気がいたしました。

親鸞聖人が歩まれたお念仏の日暮らしは、必ず阿弥陀如来様のお心を聞かせていただく「お聴聞」がセットでなければなりません。ただ口に南無阿弥陀仏と称えさえすれば良いというものではないのです。「聴聞(ちょうもん)」という言葉は、どちらも「きく」という漢字です。しかし、この二つの漢字には、それぞれ異なった意味が含まれています。「聴く」という漢字は、能動的な意味を持っています。「自分から求めて聴く」ということです。仏様のみ教えというのは、聴く気がないと聴くことができません。自分の中に教えを求める心がないと、聴いても響いてはこないのです。鐘のように、仏法というのは、打てば響きます。逆に、打たなければ響きません。その人その人の悩みや不安に応じて、教えの言葉は導きとなり、響いていくのです。

次に「聞く」という漢字は、受動的な意味を持っています。「聞こえてくる」ということです。人は、自分の都合というものを必ず持っています。仏様の言葉を聴く時、自分の都合の良い形に、その言葉の意味を変容してしまうということがあります。仏様というのは、悟りの世界を言葉に変えることができる方です。その言葉は、人間境涯に身を置く者からは、紡ぎだすことのできない清らかな領域から紡ぎだされてきます。仏様の言葉は、聞こえてくるまま頂いていくことが大切です。悟りの世界から紡ぎだされた言葉に、人間境涯の浅はかな料簡を交えてはならないのです。そのことを、親鸞聖人は、「兎角のはからいあるべからず」とお示しくださっています。ウサギにツノはありませんが、ウサギのツノは長いのか、短いのか、また青いのではないか、など、ありもしないものに固執し、あれこれ無駄な惑いを引き起こしていく、これが、人間境涯の危うい料簡だというのです。私達が、仏様やお浄土に対して、頭の中で勝手に描いていく世界は、全部、ウサギのツノのようなものなのです。私達には、本当の仏様やお浄土を頭の中で思い描くことは出来ません。出来ないから迷いの凡夫であり、阿弥陀如来の願いが起こされたのです。出来ない私に、如来様は、言葉の導きとなって響いてくださるのです。私の浅はかな料簡を交えず、聞こえてくるまんま、その響きに包まれていくのです。これが、「聞く」ということです。

この「聴」と「聞」が合わさった時、初めて、本当の如来様に出遇えていくのです。本当の如来様に出遇われた方は、その時から、その如来様に抱かれ、教えられ、導かれる人生がスタートします。お浄土へ生まれていく道が、スタートしたということです。この道は、如来様がいつも一緒に歩んでくださる道です。それまでの人生は、自分一人が、我を張って歩んできた道です。これまで歩んできた自分の経験一つを頼りに、様々な困難に立ち向かっていく道です。最大の困難は、生老病死という人間の根本苦です。生まれたということ、老いていくということ、病に罹るということ、そして、死んでいくということ、これらを自分の経験を頼りに乗り越えていかなければなりません。それは、孤独な道です。死んだことのない者に、死が何であるかは分かりません。分からないものに立ち向かっていくのです。多くの者は、その前に無残に散っていくのではないでしょうか。

如来様が一緒に歩んでくださる人生は、常に気づかされる人生です。言葉の仏様が、色んなことを教えてくださいます。重い病の中で、涙溢れるような感動に包まれていくこともあります。90歳を超えても、「ああ、そうだったのか」と、新しい気づきに胸が震えていきます。死を前にしても、穏やかに合掌してゆける世界に出遇うことができます。お聴聞し続けていく人生は、いつまでも気づかされ、感動に包まれていく人生なのです。お寺でのお聴聞を大切に、豊かな人生を歩ませていただきましょう。

2017年9月1日