お育てをいただく

先日、ある比較的若い方々の集まりで、お寺について、次のような話のやり取りを聞かせていただきました。

「私は、小さいころから、気づけば、お寺と繋がりがありました。」
「私もそうですね。前の住職さんには、子どもの頃から、本当に可愛がってもらいました。」
「正直、仏教が、どういう教えかは分かりませんが、小さいころから、お寺と関わっているので、お寺に対して抵抗は感じませんね。」
「良い、悪い、の判断をせずに、自然と小さいころから良いもののように思わされているって、これも洗脳なんですかね。」
「そうかも知れませんね。」

 平成七年に起こった、オウム真理教による地下鉄サリン事件は、当時、宗教に無知な日本人に大きな衝撃を与えました。あの時に、何度も報道等で大きく叫ばれたのが、「洗脳」という言葉だったように思います。優秀な学歴のある若者が、教祖に洗脳され、あのような凄惨な事件を起こしたというものです。当時、「洗脳」という言葉と共に、宗教とは、恐ろしいものという感覚が、日本中を覆っていたように思います。二十年以上たった現在においても、その感覚は、決して、人々の心から消えていないのではないでしょうか。

宗教というのは、「宗(むね)とする教え」という意味です。つまり、自分が生きていく上で、価値基準の根幹となる教えを持つことが、宗教を持つということです。極端な事を言えば、価値基準の根幹となる教えが、人を殺すことを善い行いと教えるものなら、その教えを価値基準の根幹としている人にとって、人を殺すことは、善い行いとなっていきます。人は、日々の暮らしの中で、無意識のうちに、様々な事柄に関して、善い悪いを判断して生活しています。その根幹を支配していくものが宗教ですから、ある意味では、宗教というのは、非常に恐ろしい面を持っていると言えるでしょう。

そもそも、どんな人も、善い悪いを判断する価値基準を持たないと、日々の生活は成り立ちません。多くの場合、それは、その人の生きてきた人生経験が基準になっていると思います。これまでの挫折や成功、また、身を置いてきた環境等が、その人の価値観を形成していきます。自分が経験する中で作り上げてきたこれまでの価値基準を投げ捨てて、全く別の価値基準を受け入れることが、宗教を持つことです。その意味では、人にとって、宗教を持つというのは、非常に難しいことです。

浄土真宗では、そのみ教えを価値基準の根幹としていくような宗教的な人になることを、「お育てをいただく」という言葉で味わっていきます。これは、親鸞聖人の宗教観を、とてもよく表している言葉だと思います。「宗教を持つ」ということは、非常に難しいことだと言いましたが、親鸞聖人は、そもそも、私が仏様のみ教えを信じること自体、不可能なことだと言われます。私には、自分の価値観を捨て、仏様のみ教えを信じる身になるほどの力が、そもそも備わっていないとおっしゃるのです。それでは浄土真宗において、そのみ教えを価値基準の根幹とし、仏様を信じていくことを、どう考えていけばよいのでしょうか。

それは、阿弥陀如来の願いの中に答えがあるというのです。阿弥陀如来の願いは、私にお念仏を申す人生を歩んでほしいというものです。お念仏を申すということは、阿弥陀如来という、私を愛してやまない本当の命の親がいることに気づいていくことを意味しています。仏の願いは、願いのまま終わりません。願いは成就されてあるのです。私が、今、お念仏を口にしている、み教えを聞こうという心が起こってきている、お寺に親しみを感じる、それらは、本来の私には備わっていない姿です。それが、不思議にも、私の姿の上に表れているのは、仏様の純粋な願いが、私の上で実現していることなんだと、親鸞聖人は、味わっておられるのです。

人が人を導くように装うのが、「洗脳」ということでしょう。しかし、人に人を導く力などありません。お互いに、間違いを起こしやすく、傷つけ合う凡夫なのです。もし、私の上に、仏様に手を合わすような姿が表れたのであれば、それは、人によって洗脳された姿ではありません。無始よりこのかた、私のことを慈しみ悲しみ、愛し続けた深い純粋な仏心の働きが、私を育ててくださったのでしょう。そのことを、浄土真宗の御門徒の方々は、「お育てをいただいた」と喜んでこられたのです。共々に、お寺という不思議なご縁の場に集えることを、喜べる私でありたいですね。

2018年4月7日