人生が愛されている

最近、お経の中やお寺で聞くご法話の中だけでなく、仏様のお心は、日常生活の色んな場面に転がっていることを感じるようになってきました。先日も、何気なく見ていたNHKの朝の連続テレビ小説『半分、青い。』の一場面に、素直に有り難いなと思えるものに出遇えました。それは、主人公の「すずめ」の幼馴染であり親友の「りつ」という大学生とそのお父さんとの会話です。

久しぶりに実家に帰ってきた「りつ」は、母親が、精神的な病の薬を服用していることを知ります。母親の名前が記された薬の袋を持って茫然とする「りつ」の所へ、父親が現れ、「りつ」に次のような言葉を掛けるのです。

 「母さんは、もうその薬は飲んでいないよ。お前がいなくなって、少しふさぎ込んでいたけど、ボクシングを始めて、今は元気になってるよ。」
「母さんが、ボクシング・・・」
「お前は、母さんのことは心配しなくていい。父さんがついてるから。母さんは、お前の人生を愛しているんだ。だから、お前は心配せずに、自分の人生を精一杯生きろ。」

親としての純粋な愛情を表わした、とても素敵なセリフだと思います。昔から、阿弥陀如来と私との関係を、親子の関係に譬えられることが多いですが、改めて、純粋な愛情とは、どういうものかを考えさせられたことです。

浄土真宗のみ教えは、蓮如上人が、「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候」とお示しくださるように、「信心」ということが、根本になければなりません。「信ずる」ということは、「思い込む」ことではありません。かたくなに、訳のわからないことを思いこむことは、信じているのではありません。私の勝手な思いを強めているだけのことです。思い込みの中で出会っているのは、結局、かたくなな私自身でしかありません。「信」とは「まこと」と読むように、「信心」とは、「まことのこころ」、それは、純粋な仏様の愛と慈しみの心をいうのです。この純粋な愛と慈しみの心に出遇っていくことを「信ずる」といい、それは、深く愛されている私自身との出遇いでもあるのです。

人は、自分自身の価値を、どのように判断しているのでしょうか?私のどこに生きる意味があるのでしょうか?多くの場合、それは、人間社会の中において、自分が、どれほど役に立つ存在かどうかではないでしょうか。社会の中において活躍している時、それは、自分は人間社会において意味のある存在です。人は、その時、自信に満ち、時には傲慢にもなってゆきます。しかし、年老いたり病に侵されるなどすると、人の役に立つどころか、人に迷惑さえ掛けていくようになります。すると、社会における自分の価値は見いだせなくなり、「自分なんか生きていてもしょうがない」と卑屈になってゆきます。このような、役に立つか立たないかで命の価値を判断し、他人との比較の中で自分の価値を見定めていこうとする姿を、仏教では、迷いの凡夫というのです。なぜ、迷っているといわれるのか、それは、何者とも比較することのできない本当の命に出遇っていないからです。本当の自分の輝きに出遇っていないのです。

親鸞聖人が歩まれたお念仏の道は、私の人生が如来によって愛されていることへの目覚めの道でもあります。私の都合が愛されているのではありません。私の人生が愛されているのです。生きるというのは、一筋縄にはいきません。どんな人も、何十年と生きていると、言葉にはできない苦労をそれぞれに抱えているのではないでしょうか。全部、思い通りになる人生なんかあり得ません。たとえ思い通りになったとしても、年老い、病に侵され、死んでいくという根本苦からは逃れようはないのです。私の人生が慈しまれ愛されているというのは、恥ずかしいことや悔しいこと、根本苦さえ愛されているということです。私にとっては、忘れたいような恥ずかしいことも、悔しいことも、恐ろしくつらいことも、如来様は愛おしく慈しんでくださるのです。その慈しみの心が、私に現実に響いているのが、南無阿弥陀仏のお念仏です。お念仏を申す中に、深い慈しみと愛に抱かれている私だけの毎日を生き、そして、その深い愛情に応えていくような毎日を精一杯送らせていただくのです。

人生が愛されているのであれば、その人生を私自身がないがしろにするわけにはいきません。また、人生で起こるどんなことも大切にしないわけにはいきません。お念仏申す中、如来様に抱かれながらの精一杯の人生を送らせていただきましょう。

2018年6月5日