死を抱えた生を生きている

先日、あるご法事のお斎の席で、隣に座られたご親戚の方から、次のようなお話しを聞かせていただきました。

「御住職さん、私は、今年八十八歳になります。元気そうに見えると思いますが、私はね、一応、被爆者なんですよ。」

「被爆者というと、広島で原爆に遇われたんですか?」

「そうです。十六歳の時に原爆におうたんです。私は、生まれも育ちも宇部市なんですが、宇部の学校を卒業した後、広島の学校に進んだんです。私は、一人っ子でしてね、そこの学生になれば、卒業までは兵役が免除されるという理由で、母が強く勧めたんです。ところが、進学した一年目の夏に原爆が落ちました。その日は、学生全員が、市内の軍需工場に手伝いに行くことになっておりまして、私も、広島駅から電車に乗っていったんです。工場は、比治山という山を越えたところにあったんですが、駅に到着して、工場に向かって歩いている時に原爆が落ちたんです。ところが、比治山を超えていたおかげで、山が爆風を遮るような形になって、一、二メートルは飛ばされましたが、私は、その程度で済んだんです。しかし、一本後の電車に乗る予定だった友人たちは、広島駅で原爆に遇い、全員亡くなりました。生きてるというのはね、本当に不思議な事ですよ。たまたまが、偶然重なっているだけです。ここまで生かさせていただいて、最近、つくづくそう思うんです。」

ご法事の席で、戦争体験を聞かせていただくことはありましたが、被爆体験を聞かせていただいたのは、この度が、初めてのことでした。原爆投下直後の広島市の惨状なども、言葉を選びながら、少しお尋ねをさせていただきましたが、その辺りのことは言葉を濁されました。おそらく、軽々に言葉にはできないものだったのでしょう。平和な時代しか知らない者にとっては、想像を絶する世界があるのだと思います。

戦争後の日本社会は、人の死が身近に感じられなくなった社会とも言われます。ほとんどの方が、病院や施設で息を引き取り、その後、葬儀社によって、ご遺体は、まるで眠っているかのように美しく整えられます。毎年、多くの葬儀のご縁をいただきますが、親の死に目に会えなかったという人は、今は珍しくありません。人が死んでいくのを目にすることは、日常生活の中では、ほとんどなくなってしまいました。現代は、人の死は、非日常なのです。しかし、一方で、現代においても、人が死んでいくことは特別なことではありません。むしろ当たり前のことなのです。当たり前のことが、隠されているのです。

親鸞聖人が、八十八歳の時に書かれた、生涯最後のお手紙が現存しています。そこには、次のようなお言葉が記されています。

「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。」

このお手紙が書かれた二年前に、関東で大地震が起こっています。この地震と大津波によって、関東一帯は、壊滅的な被害を受けます。さらに、その翌年からは、全国的に大飢饉と疫病が流行し、無数の餓死者が溢れかえったことが、『吾妻鏡』などの文献によって知ることができるようです。このお手紙は、乗信房というお弟子が、関東でのその悲惨な状況を、お手紙で親鸞聖人に訴えたことに対する親鸞聖人の返信なのです。ここで親鸞聖人は、「老いも若きも男も女も無数に人々が死んでいく有様は、驚くべきことではない」とおっしゃいます。お釈迦様が、生死無常のことわりをすでにお説きくださっているように、死なない者が死んだのではなく、本来死すべきものが死んだのだとおっしゃるのです。

八十八歳の親鸞聖人にとって、驚くべきことは、なんだったのでしょうか?おそらく死すべきものが死んでいくことではなく、死すべきものが、こうやって生きていることだったのではないでしょうか。

仏教では、生死(しょうじ)というように、生と死は、切り離すことのできない一つのものです。人は、死と向き合うことによって生の尊さに出会い、生と向き合うことによって死の意味を尋ねていくのでしょう。

どんな人も死を抱えた生を生きているのです。生死を超え、本当の命に目覚めていくような、尊いお念仏の日暮らしをさせていただきましょう。

2017年10月31日