無常なる私の命を見つめてみる

今年の九月は、厳しい残暑もなく、秋が素直にやってきた感じがします。秋の季節は、仏教でいうところの「無常」を感じさせるものです。強く照り付けていた日差しが緩み、木々が紅葉し、寂しい気分を運んできます。また、秋のお彼岸は、西に沈んでゆく夕日を見ながら、西方浄土に往生された故人の方々を、自然と偲ばせていただける季節でもあります。日本には四季があり、古来より日本人は、無常を肌で感じてきたようです。様々な有名な和歌にも、それが表れています。

しかし、日本古来の和歌などで歌われている日本人の無常と仏教で説くところの無常は、根本的に異なります。日本古来の和歌などに表れる無常は、外から移り変わっていく様子を眺めているものです。移り変わっていく景色や盛者必衰の人間社会の有様は、私達に、無常の現実を教えてくれます。その儚い様に胸を打たれない人はいないでしょう。それらは、お釈迦様が教えられたことを、正しく証明してくれています。あらゆるものは、例外なく移り変わり留まることがないのです。

しかし、仏教の教えは、客観的に教えの正しさを証明することに意味を求めません。時々、お釈迦様の教えの正しさが証明されれば、仏教を聞く気になるというようなことをおっしゃる方がおられます。阿弥陀如来やそのお浄土が、客観的にあることが、人によって証明されれば信じることができるということなのでしょう。しかし、それが人によって客観的に証明されたところで、仏教の教えは意味をなさないのです。教えというのは、その人の人生の拠り所となるものです。教えに従って人生の意味を味わい、教えに従って様々な事象の意味を見極めていくのです。単なる知識としての仏教は、成仏道にはなりえません。物知りになったところで、煩悩まみれの凡夫は、煩悩まみれの凡夫のままだからです。

無常ということも、お釈迦様は、外から眺める知識として教えられたのではありません。私の命の意味を問うていく現実として教えられているのです。私そのものの上に無常の現実を味わっていくのが、仏教の無常です。移り変わり留まることのない私は、いったいどこへ向かっていくのかということです。

浄土真宗の歴史の中で、この無常の教えを最も強調された方は、本願寺第八代御門主であり、本願寺中興の祖とも讃えられる蓮如上人です。葬儀の時に拝読される「白骨の御文章」をはじめ、いたるところで、無常ということを強調されています。蓮如上人の八十五年の御生涯は、無常の現実を感じざるを得ない波乱に満ちたものでした。二十七歳の時にご結婚された蓮如上人は、四十一歳の時に、奥様と死別をされます。翌年、四十二歳の時に、死別された奥様の妹さんと再婚されますが、五十六歳の時、再婚された奥様とも死別されるのです。それだけではありません。同じ五十六歳の時には、二十八歳のお嬢様と十二歳のお嬢様とも死別されています。さらに、翌年の五十七歳の時には、二十五歳のお嬢様と六歳のお嬢様とも死別されるのです。その後、六十歳前後の時、三人目の奥様と再婚されますが、この奥様とも六十四歳の時に死別されています。さらに、六十九歳の時には、頼りにしていたご長男の順如上人が、四十二歳で突然ご往生されます。そして、六十七歳頃に、四人目の奥様と再婚されますが、七十二歳の時に、この奥様とも死別されます。さらにその後、七十六歳の時には、二十八歳のお嬢様、七十八歳の時には、三十一歳のお嬢様とも死別されます。生涯で、結婚するたびに、四度も奥様を見送られ、ご長男をはじめ、七人ものお子様方との今生の別れを経験されるのです。実際に経験された方でないと、その痛みは分かりませんが、親を残して子どもが先立っていく逆縁ほど、悲惨な別れはありません。人の命の無常な有様を、誰よりも痛感しておられるのが、蓮如上人なのです。そして、その無常な有様は、他人事ではなく私事なのです。悲しみに明け暮れる私もまた、同じように移り変わり留まることはないのです。無常であり続ける私は、この先、どうなっていくのでしょうか?誰もが、この言葉にできない大きな命の不安を抱えています。そして、この根本不安の解決が、他ならない仏道を歩むということの本来の意味なのです。

過ごしやすい秋の季節ですが、移ろいゆく季節の中で、無常なる私の命を見つめてみてはいかがでしょうか。大切な方を悲しみの中で見送っておいて、しょうがないでは済まされません。大切な方の無常な有様は、私に対する無言のお説教です。今一度、仏法を聞かなければならないことの大切な意味を、お互いに見つめなおしましょう。

2017年10月1日