New 「無明の闇」

【住職の日記】

先日、保育園関係のある研修会で、三年前の2016年に相模原市で起きた、障害者施設殺傷事件についてのお話を聞かせていただきました。

この事件は、まだ記憶にも新しいと思いますが、2016年7月26日に知的障害者施設である津久井やまゆり園に元施設職員の男が侵入し、所持していた刃物で入所者十九人を刺殺し、職員・入所者合わせ二十六人に重軽傷を負わせた大量殺人事件です。戦後の日本の殺人事件としては、最も被害者が多い、戦後最悪の殺人事件として日本中に衝撃を与えました。

この事件を起こした犯人は、植松聖という二十六歳の男です。事件から三年が経過した今、初公判が令和二年と決定しているだけで、まだ、事件の真相は何も明らかになっていません。この犯人と面会をし、実際に言葉を交わしたという方が、この度の研修会のご講師でした。東八幡キリスト教会の牧師さんである奥田知志先生です。奥田先生は、事件以来、植松被告と文通を続けてきた新聞記者の方から依頼をされ、その新聞記者の方と一緒に面会に立ち会ったということでした。

犯人の第一印象は、とても礼儀正しく、言葉遣いや所作などから、とても良い育ちをしているというものだったそうです。しかし、言葉を交わす中で、植松被告の命に対する非常に偏った主義主張が、重く響いてきたといいます。

植松被告の残虐な犯行は、いわゆる無差別殺人ではありませんでした。人を選んで殺害したのです。施設に押し入ったとき、会う人会う人に対して、名前と住所と年齢を尋ねていったそうです。そして、それに答えられなかった障害者の方々を、次々と刺殺していったといいます。植松被告は、その理由を「役に立たない人間だから」と平然と答え、自分の行いは、社会の役に立つ良い行いだと信じて疑わない様子だったといいます。奥田先生は、植松被告に尋ねます。「あなたは、事件を起こす前、役に立つ人間だったのですか?」この質問に、しばらく無言になった植松被告は、呟くように答えたそうです。「私は、役に立つ人間ではありませんでした。」この犯人の答えに、奥田先生は、胸が締め付けられるような思いを持ったといいます。奥田先生は、この犯人との対話を通し、キリスト教の立場から、命が大事という大前提が、失われていく時代の不気味さを語っておられました。それは、人は、生きているという一点において、平等に尊いという価値観が世界から失われていく不気味さです。

奥田先生は、キリスト教の立場から語られましたが、その内容は、仏教で説く真理と全く共通するものだと思います。仏教で説く煩悩の根源は、自分の都合を中心にして、あらゆるものを分け隔てて捉えていく無明というものです。無明というのは、明るさが無いという言葉通り、物の本当の本質が隠されて見ることが出来ない状態をいいます。

私たちは、命が尊いということを、本当に実感として味わえているでしょうか。実際に、私たちも、あらゆる命の中に、役に立つものと役に立たないものを平然と認めているのではないでしょうか。昔から日本人のお腹を満たしてきたウナギが、近年、激減しています。今、日本中でウナギの命を大切に保護する活動が活発に起こっています。しかし、一方で、農作物にとって害を及ぼすアブラムシが減ってきていることを聞いても、保護する活動など起こりません。むしろ、減ったことを喜んでいるのではないでしょうか。もし、ウナギが、人の食料にならない命なら、これだけ数が減っていることがニュースになるでしょうか。人同士でも、同じことがいえます。社会に貢献している人間が大切にされ、そうでない人間は、生きている意味が見いだせない状況があるのではないでしょうか。

役に立たない命も、同じように大切な意味を持っていることは、本当の宗教を持たない限り、味わうことの出来ない世界なのでしょう。阿弥陀如来の願いは、十方衆生にかけられた願いです。十方衆生とは、あらゆる全ての命です。ウナギもアブラムシも役に立たない人間も役に立つ人間も、老いも若きも男性も女性も、全てのあらゆる命は、如来様に慈しまれ愛されていない命はありません。どんな命も、生きていることが、そのまま愛されていることなのです。

無明の闇に飲み込まれ、命の本質を見失い、残虐な行いを正義の名の下に簡単になしてしまう、そんな不気味さを誰もが抱えていることを忘れてはなりません。そんな私だからこそ、如来様は、見捨てておけないとお念仏に成ってくださったのです。お念仏を申す中に、如来様のお心を、大切に頂いていきましょう。

(令和元年7月1日)

2019年7月1日