New 「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」

先日、大変お念仏を喜ばれた御門徒のお一人が、御往生されました。その方のお念仏の声が、もう聞けなくなることを思うと、大変寂しい気持ちがします。お盆やお取り越し報恩講のご縁にお参りに上がらせて頂いた時も、お勤めの後は、世間話はほとんどなく、いつも仏法の味わいをしみじみと語ってくださいました。沈黙されることが、ほとんどありませんでした。お話が途切れると、「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と、自然とお念仏が口から溢れておられました。まさしく、お念仏に抱かれ、仏様と共に掛け替えのない人生を生き抜かれた念仏者でした。

その方が、特に繰り返し味わい喜んでおられた蓮如上人のお言葉があります。それは、『御文章』の「信心獲得章」と呼ばれるものの中の次の一節です。

 「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて『煩悩を断ぜずして涅槃をう』といへるはこのこころなり。」

いつも、この方のお宅で『御文章』を拝読させていただく機会があるときは、この「信心獲得章」を、できるだけ拝読するようにしていました。最初から最後まで拝読するのに、約三分~四分程度かかります。普通、『御文章』を拝聴される時は、誰もが頭を垂れ、沈黙されます。その方も、頭を深々と垂れ、黙って拝聴されておられましたが、先の一節の部分になると、決まって「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」とお念仏の声が溢れておられました。特に、「これによりて『煩悩を断ぜずして涅槃をう』といへるはこのこころなり」の一文になると、お念仏の声が大きくなっておられました。その大きく響くお念仏の声の中、拝読する住職も、蓮如上人のお言葉に込められた深い意味を、改めて大切に聞かせていただいたものです。

「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」、この一言の中には、仏道と真摯に向き合う者にとって、金を掘り出すような尊い意味が込められているのです。「涅槃を得る」とは、「悟りを開く」ということです。「悟りを開く」というのは、お釈迦様のような仏様に成るということです。仏教とは、本来、お釈迦様のような仏様に成ることの正しさを教え、その仏様に成るための道を教えるものです。仏様とは、どんな命も無条件に慈しみ、あらゆる悲しみを引き受け、あらゆる命と共にありつづけるような存在です。そこには、愚痴も不満もありません。澄み切った心の状態がぶれることもありません。愛と憎しみも超えていきます。生と死の壁もありません。私達には、想像できない深い境地が悟りの世界です。仏様のみ教えと真摯に向き合うということは、その境地に至る道と向き合い、その境地とは、ほど遠い自分自身の愚かな姿としっかり向き合うということです。

仏様と私との決定的な違いは、煩悩です。私を煩わせ悩ますものです。煩いと悩みを持つ者は、仏様ではありません。凡夫です。そして、私を煩わせ悩ますものの正体は、私の心なのです。自分自身を愛し、自分自身の都合を邪魔する者を憎んでいく私の根性が、私自身を煩わせ悩ますのです。お釈迦様以来、約二千五百年の間、真摯な仏道修行者達は、この自分自身のどうしようもない根性と格闘してきたのです。
仏道というのは、本来、仏様の尊さを知らされると同時に、煩悩を抱える自分自身の愚かさを知らされ、そして、「煩悩を断じて涅槃を得る道」を力強く歩むことをいうのです。その仏教の大原則の中、親鸞聖人は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る道」を明らかにされました。どうしようもない煩悩を抱えた私も、阿弥陀如来から願われている掛け替えのない仏の子であることを教えてくださったのです。人生における煩いや悩みも、掛け替えのない私自身です。仏様が、無条件でどんな命も慈しみ、あらゆる悲しみを引き受けてくださる存在であるなら、煩悩を抱える仏様でない私は、このまんまで仏様から深く慈しまれ悲しまれる存在なのです。その深い慈しみと願いが、言葉になり働きとなって、私に満ち満ちてくださっているのが南無阿弥陀仏のお念仏です。南無阿弥陀仏のお念仏は、どうしようもない煩悩を抱える私に、阿弥陀如来の深い慈愛の中にあることを知らせ、私を決して見捨てない本当の親がましますことを聞かせてくださる阿弥陀如来の呼び声なのです。

お念仏の声の中に、人智を越えた深い心が響いているのです。新型コロナウイルスの影響で法座のない月日が続きます。自らが称えるお念仏の声を大切に聞かせていただきましょう。

2020年5月1日