「お聴聞」

【住職の日記】
明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、一日一日を丁寧にいただいて参りましょう。

先日、ある御門徒の方の二十五回忌のご法事にお参りさせていただいた時のことです。施主様から二十五回忌を迎えるお父様について、次のようなお話を聞かせていただきました。

「来月は、御正忌報恩講ですね。コロナが、早く落ち着くといいですね。父は、御正忌報恩講の三日間は、正法寺に泊まり込んでお聴聞していました。昔は、多くの人が、御正忌報恩講の三日間、お寺に泊まり込んでお聴聞していたみたいですが、父は、最後まで泊まっていた人の一人です。お寺に迷惑がかかるからと家族が止めても、最後までお寺に泊まることをやめようとしませんでした。最後は、病院に入院していましたが、お寺の御法座があるときには、外出許可を取って、病院からお寺にお参りしていました。本当に、お聴聞が好きな父でした。懐かしいですね。御正忌報恩講を迎えると、いつも父のことを思い出します。」

「お聴聞」ということを、人生の柱にして生きられた先人の方の尊いお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。

浄土真宗において、仏様のみ教え、そのお心を聞かせていただくことを「お聴聞」といいます。そして、この「お聴聞」が、浄土真宗において、最も大切な行いになります。浄土真宗では、特別な戒律や修行を課すことはありませんが、だからといって、何もしなくてもいいということはありません。心がけてしなければならないことがあります。それが、お聴聞です。

聴も聞も同じ「きく」という言葉ですが、聴は、「明らかに聴く」という意味があります。「聴く」というのは、自ら自発的に求めて聴いていくことをいうのです。一方で、聞は、「そのまま聞く」という意味があります。「聞く」というのは、自ら聴くのではなく、聞こえてくるものをそのまま素直に聞くことをいいます。仏様のお心を聞くには、それを求める心がなければ聞くことはできません。仏様に無関心で、仏法を求めていない人が仏様のお心を聞いても、何も響いてこないでしょう。話だけが素通りしていくだけです。一方で、仏様のお心を求めていたとしても、自分の都合よく仏様のお心を聴いてしまうと、そのまま聞くことにはなりません。仏様は、本当のことを教えてくださいますが、本当のことは、私にとって必ずしも都合のいいことばかりではないのです。自分の価値観を主体にして、仏様のお言葉を受け止めてしまうと、仏様のお心は自分の影に隠れてしまいます。「お聴聞」というのは、聴と聞とがピタッと合わさる中で成立する非常に繊細な行いなのです。

江戸時代末期、下関市の六連島に「おかるさん」と呼ばれた尊い念仏者がおられました。夫の浮気がご縁となり、仏法を真剣に求めて聴くようになったと言われています。現在でも六連島には、「身投げ岩」と呼ばれる、おかるさんが、投身自殺を図ったと言われる場所があります。そんな、おかるさんも、最初は、求めて仏法を聴いても、仏様のお心は聞こえてこなかったといいます。聞こえてくるのは、愛憎に狂う自分の心だけです。お慈悲が聞こえてこず、救われようのない自分に、何度も絶望したといいます。しかし、真剣に仏法を重ねて聴くうちに、だんだんと自分の悲しい姿が見えてきたといいます。それは、人を呪い、怨み、妬まねばならない自分自身の悲しさです。夫もその浮気相手も、地獄の底へ突き落としてやりたいと思い続けている、その自分の罪業の深さを思うと、地獄の底へ落ちていかなければならないのは、むしろこの自分ではないか。罪業深重という言葉が、我が身のこととして響いてきたというのです。自分の都合ではなく、本当のことが聞こえてきたということです。

おかるさんは、晩年、こんな詩を詠んでいます。 「重荷せおうて山坂すれど 御恩思えば苦にならず」 人生というのは、様々な重荷を背負って、山坂をくぐり抜けていかなければなりません。人間は、生きている限り煩悩を燃やし続けます。それだけに様々な苦悩を背負っていかなければならないのです。しかし、その苦悩の重荷を、単なる愚痴の種にしてしまわずに、仏法を味わう尊い縁として、人生これ念仏の道場なりと頂いていくような心の眼が開かれていくのが、お聴聞を柱とした浄土真宗の仏道の姿なのです。

今年も、御正忌報恩講をお迎えします。お聴聞を人生の柱として生き抜かれた多くの先人の方々のみ跡を慕い、親鸞聖人の御遺徳を味わいながら、我が身のこととして、大切にお聴聞させていただきましょう。

 

 

 

 

2022年1月1日