「仏教を学んで、何の役に立つのですか?」

【住職の日記】
今年もコロナ禍の中、多くの皆様の御報謝をいただき、無事、親鸞聖人の御正忌報恩講が勤まりました。連日、過去最高の感染者数を更新する中、本当に、たくさんの皆様がお参りくださいました。無病息災を祈るためではなく、多くの方々が、御恩報謝のためにお参りされ、仏様のお心をお聴聞される報恩講の光景は、なによりも尊いものだと思います。

この度の御講師をお願いした赤井智顕先生は、住職の大学院時代の後輩にあたります。三日間、とても丁寧に楽しくありがたくお話くださいました。その中で、二日目の夜座でのお話をご紹介します。それは、先生が、非常勤講師を務めておられる京都の龍谷大学で経験されたお話でした。

龍谷大学の歴史は、一六三九年(寛永十六年)に西本願寺内に設けられた僧侶を教育する学校が始まりです。現在でも、浄土真宗本願寺派の総長が学校法人の理事長を務め、浄土真宗を建学の精神として大学教育を進めています。しかし、現在は、一〇学部三〇学科を擁する総合大学に成長し、学生数も二万人を超えます。二万人の学生のほとんどは、お寺とは関わりのない一般家庭の子ども達です。入学した大学が、たまたま浄土真宗を建学の精神としている学校だったという学生がほとんどなのです。そんな学生のほとんどは、経済学部や法学部などの一般の学生です。仏教を学びにきた学生ではありません。しかし、龍谷大学は、二万人を超える全ての学生に対して、仏教学を必修科目としているのです。経済学部の学生も理工学部の学生も、仏教学の授業を受講し、仏教学の試験に合格しなければ、卒業できない仕組みにしているのです。受講しなければ卒業できないので、学生達は、仕方なしに仏教学の授業を受講します。そんな学生達を前に、仏教を、どうやって伝えていくか、講師の先生達も本当に頭を悩ませているといいます。

ある日のことです。仏教学の講義を終え、教室で帰りの支度をしているとき、受講していた学生から質問があったそうです。その質問は、「仏教を学んで、何の役に立つのですか?」というものだったそうです。自分の将来に役立たせるために、経済学や法律学を学びに大学に入学したという学生は多いでしょう。そんな学生達からすれば、社会で役に立ちそうにもない仏教を強制的に学ばされることは、苦痛以外の何者でもなかったのかも知れません。そんな学生に対して、次のような会話を交わしたといいます。「一緒にいるのはお友達?」「はい。」「仲いいの?」「まあ、仲いいですね。」「役に立つから仲がいいの?」「いや、、、」「お母さんのことは、大切に思っている?」「はい、、」「お母さんも役に立つから?」「いや、、、」「役に立つか立たないかで、どんな物事も判断していくのは、どこか判断する物差しが歪んでいるんじゃないかな。仏教は、そんな自分が持っている物差しを疑い、仏様の物差しを学ばせてもらうんだよ。」

こんな会話だったそうです。その学生は、何かに気づいてくれたような、はっとした表情をしてくれたそうです。仏様のお話を聞いていくことの大切な意味を伝えてくださった、とても味わい深いお話でした。

親鸞聖人が尊敬された七人の高僧の中に、善導大師というお方がおられます。中国の唐の時代の方です。その善導大師が遺されたお言葉に「学仏大悲心」というものがあります。「仏教を学ぶというのは、仏様の大きな悲しみを学ぶことである」という意味です。大きな悲しみというのは、無数の命が抱える無数の悲しみを、共に限りなく悲しんでいく心です。役に立つ物だけが、大切なのではありません。何の役にも立たないような存在も、仏様には、愛されるべき尊さを持った存在なのです。

人間が当たり前に持っている我欲が作り出す浅ましい心の世界は、私達を方向性のない無秩序な迷いの世界に落とし込めていきます。方向性がないというのは、何のために生まれきたのか、何のために生きるのか、死んでどうなっていくのか、全く分からず、生き様も死の味わいも、何も定まっていかないということです。けっして思い通りにはいかない人生の中で、どれだけのものが、私の役に立つものだったでしょうか?私が切り捨て、見ないようにしてきた役に立たない悲しみや悔しさの中にこそ、大切にすべき多くの意味があるのかも知れません。それは、仏様のお心を学ぶ中に、一人一人が、それぞれの人生の中で味わい気づいていくことでしょう。

お寺の御法座は、役立つ知識を増やすために、難しい話を聞きに行くのではありません。方向性のない私が、新しい気づきと明るさをいただきに行くのです。今年もコロナ禍が続く中ですが、たくさんのお参りをお待ちしております。

 

 

 

 

2022年2月1日