「仏教的価値観」

【住職の日記】

先日、ある方から、興味深いお話を聞かせていただくことがありました。それは、動物の命についてのことです。現在、世界的に、動物愛護の意識は高まっています。しかし、人間以外の動物の命も大切だとする点では共通していたとしても、世界の人々によって、その捉え方は様々だといいます。その価値観の違いを形作るものは、やはり宗教の違いだそうです。

キリスト教文化圏の人々がもつ価値観は、人間以外の動物の命も大切だとしますが、そこには、どうしても人間と人間以外の動物との間に大きな隔たりがあるといいます。たとえば、動物の子どもを人間が育てる時、キリスト教文化圏の人々は、動物を叱りつけることを嫌う傾向があるといいます。それは、動物というのは人間とは異なり、叱りつける奥にある愛情を感じることが出来ず、ただ苦しみを感じるだけだという考えがあるからです。一方、仏教文化圏の人々がもつ価値観は、人間と人間以外の動物との間に、隔たりがあまり感じられないといいます。動物を育てるときにも、愛情を持ちながら、時には褒め、時には叱りつけ、自分の子どもを育てるように育てていくそうです。どちらも、動物の命に思いやりをもち、その命を大切にしていく点では、共通しています。

しかし、この微妙な命に対する価値観の違いが、大きな問題になることがあるのです。その一つが、鯨漁の問題です。日本の鯨漁は、世界の人々から、大きな批判を受け続けています。日本の人々からすると、牛や豚を食肉とする西洋の人々が、なぜ、鯨になると、あそこまで批判してくるのかが理解できません。ここにも宗教観の違いがあるのです。キリスト教文化圏の人々は、牛や豚は、人間とは大きな隔たりがあると考えています。牛や豚の命が、大切でないとはいいませんが、少なくとも、人間の命と比べたとき、人間の命の方が大切だという価値観はもっていると思います。しかし、鯨は、牛や豚よりも、人間に近い動物だと考えているのです。人間に近い感情を持ち、人間の仲間になれる高等な動物なのです。ですから、鯨漁は、人間に近い動物を虐殺する残酷な行為として許すことができないのです。

仏教文化圏の人々からすると、牛や豚は、殺してもよくて、鯨は、殺してはいけないという価値観が、理解できません。それは、命を見つめる価値観の根底に、縁起という仏教思想が流れているからです。お釈迦様の悟りの内容は、この縁起の道理だと言われます。この道理を体得することが、悟りなのです。縁起というのは、縁って起こるという意味です。この世界のあらゆるものは、独立して存在することはありえません。すべてのあらゆるものは、どこかで支え合い、補い合いながら存在しています。私という言葉も、私以外のものが存在しなければ、成立しません。その意味では、あなたと呼べる存在によって、私という言葉が存在しているのです。あなたなしに私は存在しえないということです。

これを突き詰めていくと、無数の命と無数の出来事が無数に折り重なって、私というものが存在しえているのです。あらゆるものは、どこかで繋がりを持っており、この世界で、私と関係のないものなど一つとしてない、という世界を体得しておられるのが、仏様と呼ばれる存在です。体得するというのは、頭で理解することではありません。実感として、その世界を感受していくことです。縁起を体得した仏様には、大慈悲と呼ばれる、無限の繋がりをもった無限の命を、自分のこととして慈しみ深く悲しんでいく清らかな心が起こっていきます。あらゆる命が、自分のことのように愛おしいのです。そこには、自分と自分以外の区別すら存在しません。あらゆるものが、自分であり、あらゆるものが尊い輝きを放っています。

私達には、その世界を聞いて、なんとなく理解することが出来ても、その世界を体得し、大慈悲という心を起こしていくことはできません。どこまでも、自分と自分に関係する者が愛おしく、それ以外には、冷酷なのです。しかし、そんな私達が、命を区別することに違和感を感じるなら、それは、私達の上に、仏様の大慈悲のお心が響いているということです。仏様の眼差しが、私達を育ててくださっているということでしょう。

自分では当たり前に思っていることも、他と比較すると、当たり前でないことに気づくことがあります。知らず知らずのうちに、仏様の働きの中で育てられているということも有り難いことです。今後、ますますグローバルな時代が訪れてくることでしょう。知らず知らずに私達に根付いている仏教的価値観も大切にしたいものです。

2020年4月1日