「供養」

【住職の日記】

先日、ある御門徒のご法事の際に、ご当主から「供養」ということについて、次のような思いを聞かせていただきました。

 「御住職、私は、親鸞聖人が、亡き父母の供養のために念仏を称えたことはないとおっしゃったことを、以前、何かの本で読ませていただいたことがあります。私の力で亡き方を供養しようとする姿勢が、間違っていることは分かっているのです。でも、ご法事のときには、どうしても亡き方の供養のためと思ってしまいます。特に、自分にとって大切な人ほど、あの人のためにお経をお勤めしようと強く思ってしまいます。これでは、親鸞聖人の思いとかけ離れていくのは分かるんですが、・・・どうしようもないですね。」

「供養」という言葉は、本来、「尊敬の思いをもって捧げる」という意味ですが、これが民衆の死者儀礼と強く結びついていき、「追善供養」という意味を持っていきます。「追善供養」というのは、亡くなっていった方に代わって、私が善根功徳を積み、亡き方にその善根功徳を振り向けて、亡き方が少しでも善い世界に生まれていくよう願う行いです。人間、善いことばかりで生きていけるわけではありません。様々な命を殺め、人を傷つけて生きざるをえないのが私達です。誰もが、人生において少なからず後ろめたい思いを持っているのではないでしょうか。私は絶対に地獄には落ちないと胸を張って言い切れる人が、どれほどいるでしょうか。また、大切な人と死別した場合、誰もが、生前にああもしてやりたかった、こうもしてやりたかったと、自分の行き届かなかったことを悔やむ思いが胸をしめつけていきます。そんな悲嘆と悔やむ思いに応えていく教説が追善供養なのです。

手の届かない世界へ行ってしまった故人に、私の思いが届くことを教える追善供養の教えは、仏教の中心であるかのように、長い歴史の中で、世界中で広く行われてきました。そんな中、親鸞聖人は、弟子の唯円に次のように語っていかれます。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」
孝養というのは、追善供養のことです。亡き父母の供養のために念仏を称えたことは一度としてないと言い切られています。その理由が続いて記されていきます。
「そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。」

自分に関係のある者だけの幸せを願うことは、本来の仏教の教えではないというのです。あらゆる悲しむ命を救う仏に成っていくことを目指すのが、本来の仏教であり、その実現の道こそ、阿弥陀如来のお念仏の道であることを教えていかれます。しかし、最後には次のように言われるのです。

「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと」

お念仏をいただき、お浄土に生まれ仏様にさせていただいたなら、どんな苦しみの中にあっても、まず有縁の人々を救うことができるのですと言われるのです。あらゆる命を救うことを教えながら、最後には、私の大切な方をまず一番に救うことができるとおっしゃるのです。ここに親鸞聖人の人間の情を大切にされる一面をうかがい知ることができます。

自分の大切な人に対して、亡くなってもなお、幸せになって欲しいと願うのは、人間の情です。確かに、それは、自分の大切なものだけを思う煩悩のなせる姿でしょう。しかし、その煩悩の中にこそ、仏様に出遇い、真実に気づいていく場があるのです。悲嘆や悔やむ思いに胸をしめつけられる私だからこそ、阿弥陀如来は、私に仏に成ってほしいと願われるのです。

親鸞聖人は、亡くなっていった方の幸せを願う思いを否定されるのではありません。ただ、罪深い私が、自分の為す行いによって故人を幸せにできると思う、その思い上がった姿を否定されるのです。今の私は、人を救えるような仏様ではありません。どこまでも仏様に教えられ導かれなければならない危うい凡夫なのです。しかし、その凡夫としての命尽きたならば、今度は、胸を張って人を幸せにすることができると言える仏様にさせていただくのです。お経の言葉は、その真実を私に知らせてくださる仏様からのメッセージです。

阿弥陀如来の願いを聞き受け、お念仏を申す人生の先に、供養を超えた本当の救いの世界が開かれていくのでしょう。悲しみや悔やむ心を大切に、清らかなお念仏のお心を丁寧に聞かせていただきましょう。

 

2022年7月1日