「八十八カ所巡り」

先日、保育園関係の仕事で山口市の職員の方と雑談をさせていただいた時のことです。その職員の方も、浄土真宗の御門徒ということでしたが、四国の八十八カ所巡りをされたことを、楽しくお話くださいました。四国の八十八カ所巡りは、真言宗の開祖、弘法大師空海のゆかりの寺院を徒歩で巡り礼拝を行う、真言宗の修行の一つです。本来は、弘法大師を敬う真言宗の修行僧が行うものでしたが、江戸時代辺りから、病気平癒などの現世利益を求めて、一般の民衆も行うようになったようです。現在では、観光地化され、八十八カ所巡りのバスツアーまである状況です。その山口市の職員の方も、観光旅行として八十八カ所巡りをされたそうですが、その中で、興味深いお話をしてくださいました。

それは、沿道にお住まいの方々の心遣いについてのことでした。現在は、観光客用に、修行僧と同じ白装束が、売店で売られているそうです。職員の方も、売店で白装束を購入し、修行僧と同じ姿で歩かれたそうですが、沿道にお住まいの方々が、御布施としてお金を包んでくださったり、食べ物を持たせてくださったりするそうです。申し訳なく恥ずかしい思いを持ちつつも、宗教的な温かい雰囲気も味わうことが出来たと言います。

この方との雑談を通して、改めて宗教というものについて、考えさせられたことでした。宗教という言葉が意味する範囲は多岐にわたります。しかし、仏教、キリスト教、イスラム教の民族の枠をはみ出して、人間の根本的な不安に応えていく世界宗教と言われているものに共通するのは、清らかな聖なるものに対する敬いの心だと思います。

その意味では、現在の四国の八十八カ所巡りの現状は、宗教とは言いがたいものです。なぜなら、歩いている方々に、必ずしも弘法大師に対する敬いの心があるわけではないからです。弘法大師が、どんな方なのかも、よく知らない人も多いのではないでしょうか。ただ自分の楽しみのために八十八カ所を巡ったり、また、病気平癒や家内安全など、自分と自分に関係のある者の都合を願うだけであれば、それは、自らの欲望に促されているに過ぎません。それは、高野山に籠もられて、自らの欲望に促されていく浅ましい姿を真っ向から否定された弘法大師の姿とは、全く異なるものです。しかし、八十八カ所巡りも、本来は、現在のような姿ではなかったのでしょう。心から清らかであろうとした弘法大師の尊い姿を敬う、真面目な修行僧の方々が、礼拝をしながら歩かれていたのです。そのような昔の清らかな残り香が、沿道の方々の温かい心遣いなのでしょう。

「敬う」という心は、ただ「大切にする」という心とは異なります。鬼のような人間にも、何かを大切にする心はあります。しかし、「敬う」という心は、自己の欲望を貪る鬼のような人間の中には、存在しない心です。それは、「頭が下がる心」と言えばいいでしょうか。自らを犠牲にして、他の命を慈しんでいく聖なる存在を前にしたとき、自らの欲望に占領されている俗なる者は、その存在の有り様に心打たれ、心地よい敗北感を味わうのです。屈辱感や恐怖心と共に頭を下げる世界は、修羅や畜生の世界にもあるでしょう。しかし、心が感動に満たされる中に、深い喜びと共に頭が下がっていく世界は、人間境涯の上に現れる本物の宗教の世界だけです。本来、本物の宗教は、豊かな感受性の上に現れる、実に人間らしい営みなのです。

しかし、そんな宗教も、常に世俗化していく危険性をはらんでいます。浄土真宗も例外ではありません。仏様を敬う心、親鸞聖人を敬う心が失われ、ただ形だけが残っていく危険性を、浄土真宗も常にはらんでいるのです。敬う心が失われるというのは、そこに感動や喜びが亡くなっていくということです。人生において、頭が下がるものに出会ったことがないというのは、出会ってきたもの全てが、つまらないものだったと言ってもよいと思います。頭を下げようとも思わない、そんなつまらないものばかりを見てきた人生は、やっぱりつまらない人生です。思い通りにはならない困難な人生において、頭が下がるほどの清らかなものに出会っていくところに、豊かな感受性が恵まれた人としての本当の喜びがあるのではないでしょうか。

形だけに終わることなく、一人ひとりが、如来様の清らかなお慈悲を大切に聞き、丁寧に頂いていく毎日を大切にさせていただきましょう。

 

 

2021年11月30日