「十方衆生」

【住職の日記】

令和になって初めてのお正月をお迎えしました。お互いに明日も知れない命を頂いています。今年も、大切にお念仏薫る日暮らしをさせていただきましょう。

さて、先日、『基礎からはじめる真宗講座』において、「十方衆生」というお経の言葉について、少しお話をさせていただく機会がありました。お話を準備させていただく中で、改めて、仏様の言葉の中に込められている命の深みについて、考えさせられたことでした。

「十方」というのは、東西南北の四方に東北・東南・西南・西北を加えた八方、そして、それに上方と下方を加えたものです。あらゆる空間の総称です。「衆生」というのは、あらゆる命あるもののことです。「十方衆生」というのは、あらゆる空間に存在するあらゆる命あるもののことをいいます。
この「十方」というあらゆる空間について、古代インドの仏教徒達は、現代の日本人には持ち得ない広大な世界観をもっていました。まだ天文学や宇宙物理学が発達していなかった古代のインド人達は、私達が認識しうる限りの世界を須弥山世界(しゅみせんせかい)と呼んでいました。詳しい説明は省略しますが、私達が世界として認識している太陽や星や月、雲や風、海や川、様々な動物や植物などは、須弥山という聖なる山を中心にして展開している世界と考えていたのです。そして、古代のインド人達は、須弥山世界は、一つではないと考えていました。つまり、自分達が認識しうる世界が、全てではないと考えていたのです。その世界観は、広大無辺なものです。須弥山世界が千個集まって構成される世界を小千世界といいます。その小千世界が千個集まって構成される世界を中千世界といいます。その中千世界が千個集まって構成される世界を大千世界といい、その世界は須弥山世界が千の三乗個集まったものですから、三千大千世界と呼んだのです。この「三千大千世界」という言葉は、年回忌のご法事で、住職とご一緒に拝読する『仏説阿弥陀経』の中に何度も出てくる言葉ですので、見覚えのある方も多いかと思います。そして、この三千大千世界が、お釈迦様のご教化の及ぶ範囲と考えられていました。しかし、この三千大千世界は、世界全体のほんの一部にしか過ぎません。十方というあらゆる空間には、この三千大千世界が無数に存在しているというのです。無数にある三千大千世界には、それぞれ、お釈迦様のような仏様が無数に存在し、それこそ無数に存在する生きとし生けるものを導いている、というのが、古代インドの仏教徒たちが持っていた世界観でした。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたのは、西暦1600年代初頭です。そのはるか2000年も前に、古代インドの仏教徒達は、自分達の認識を遥かに超えた広大無辺な世界の中に、自分達がいることを感受していたのです。

阿弥陀如来が紡ぎだされた「十方衆生」という言葉には、私達の認識を遥かに超えた無数の命を深く慈しみ、悲しんでいく、広大無辺な心が込められています。広大無辺な世界を知り尽くすことができないように、その広大無辺な世界に存在するあらゆる命を願ってやまない広大無辺な心も私達には知り尽くすことはできません。しかし、知り尽くすことのできない世界や心に触れ得ることが幸せなことなのです。それは、頭が下がるものに出遇う幸せです。

想定外という言葉が、震災以降、日本社会で多く使われるようになりました。しかし、震災以前も、私達は、想定外の中に生きていたのです。それぞれ、自分の人生も想定外のことだらけです。想定内の中で生き死んでいく人はいません。みんな想定外の中を生き抜いているのではないでしょうか。仏様は、みんなが恐れている想定外の中に、尊いもの、人として触れていかなければならない大切なものがあることを教えてくださってあるのでしょう。想定外なものによって、私達は、願われ生かされているのです。

驚きのない毎日ほど、無感動で虚しいものはありません。お釈迦様に直接お会いした古代インドの仏教徒達は、その計り知れないお心とお姿に、これまで誰も経験したことのない強い衝撃と驚きを感じたに違いありません。その衝撃は、仏教という形で世界中に広がっていき、三千大千世界にまで及ぶと考えられたのです。人は、自分が正しいと思い込んでいく迷える凡夫です。ちっぽけで何も知らないにも関わらず、何もかも分かっている優れた存在と思い込んでいくのです。思い込みの中に沈む私達に、驚きと目覚めをもたらしていくのが、仏様の真理に基づいた言葉なのでしょう。

今年も、仏様の尊い言葉を大切に求めていく毎日を送らせていただきましょう。

(令和2年1月1日)

2020年1月1日