「南無阿弥陀仏と称える大切な一歩」

【住職の日記】

明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、悲喜交々の日々を有り難く頂戴して参りましょう。

先日、ある御門徒の方から、昔の正法寺門徒のお姿について、大変有り難いお話を聞かせていただきました。

 「隣の〇〇のおじいちゃんは、とてもよくお寺にお参りされていました。正法寺だけでなく、原条の教証寺にも法座があれば、よくお参りされていました。家の中にいても、お参りに出かけるおじいちゃんの下駄の音とお念仏の声が、よく聞こえてくるのです。懐かしいですね。若かった私によく『仏説阿弥陀経』のお話を聞かせようとしてくれていました。若い者に仏教を聞いてほしかったのでしょうね。その時は、若かったこともあり、あまり興味が持てませんでしたが、今にして思えば、もっとよく聞かせてもらっておけばよかったなと思います。」

最近は、お寺の本堂でも、だんだんとお念仏の声が聞こえなくなった気がしています。数十年前までの正法寺門徒の中には、道を歩きながら、家の中にまで聞こえるほどの声で、お念仏を称えている方がおられたのです。

仏教というのは、知識を増やすことが目的ではありません。実践してこそ、はじめて意味があるものです。仏教の中心は、行です。行とは、行い、生き方のことです。お釈迦様が御在世当時の古代インドでは、厳しいカースト制度の縛りの中で人々は生きていました。カースト制度の下では、生まれた家柄によって人の価値が決まっていきます。しかし、人は生まれによってではなく、行いによって、賤しくもなり尊くもなると、お釈迦様は教えられたのです。どんなことを口にし、どんなことを心で思い、どんな行動を起こしていくのか、それによって人の価値は決まっていくというのです。そして、お釈迦様は、最も尊い価値を持つ仏に成るための正しい行いを修めていくことを教えていかれました。それを修行といいます。

しかしながら、正しい行いを教えの通りに修めていくことは、並大抵のことではありません。例えば、一番有名な不殺生という行いを保ち続けることすら、私には非常に難しいことなのです。殺めてはいけない対象は、人だけではありません。蚊のような虫や雑草のような植物に至るまで、あらゆる命を殺めてはいけません。それは、実際に手を下すことだけでなく、心に思うことも殺生です。夏に蚊が飛んできて、「いなくなればいいのに」と心に思うことも殺生です。命に対する思いやりが欠落していれば、仏の境地になど近づけるはずがありません。虫どころか、心の中では何人もの人を殺めてきたのではないでしょうか。

体も心も口も、私の意志の力で完全にコントロールできるものではありません。正しい行いをしようとして、図らずも人を傷つけてしまうこともあります。穏やかな心が、ふとしたきっかけで怒りの炎に包まれていくこともあります。気をつけていても、言葉で失敗することはいくらでもあります。そもそも、それぞれの都合が渦巻いている人間社会の中で、一人だけ正しい行いをし続けることは、ほぼ不可能でしょう。

日々の生活に追われ、思いのままにならない厳しい人生を生きる者にとって、正しい生き方とはどんな生き方なのでしょうか?お釈迦様は、世俗の中で懸命に生きる私に、お念仏を申しなさいとお勧めくださいます。様々な縁に振り回され、誤解と後悔の中で生きていかざるを得ない私に、お念仏を申すという生き方が、私にとって、最も安心できる正しい生き方であることを教えてくださっているのです。

教えを聞くというのは、教えられた通りに実践するということです。お念仏を申しなさいと教えられたら、お念仏を申してみることが大切です。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と称えてみてください。そこから仏道が始まっていくのです。仏道というのは、文字通り仏の道、仏に成る道です。私は、何を目的として生きるのでしょうか?目的になり得るものとは、避けることの出来ない老いや死によっても、壊されないものでなければなりません。財産も地位や名誉も家族でさえも、死によって奪われていくものです。「死んだら終わり」という生き方からは、生きることの本当の意味を見出すことはできないでしょう。

お念仏を申すという行いは、私に恵まれた仏の道です。称えるところに、必ず育てられる人生が恵まれていきます。新しい年が明けました。いつ終わっていくか分からない日々の連続です。考え疑うよりも、まず実践することです。南無阿弥陀仏と称える大切な一歩を踏み出してみましょう。

2023年1月1日